2008年07月14日

沖縄集団自決冤罪訴訟 大阪高裁への要請書(署名用紙)

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2007年05月25日

原告準備書面(8)平成19年5月25日

http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/

第9回口頭弁論

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/28/


平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件   
原  告  梅澤  裕 外1名
被  告  大江健三郎 外1名 

原告準備書面(8)
平成19年5月25日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
           
               原告ら訴訟代理人
弁護士  松  本  藤  一

弁護士  徳  永  信  一

弁護士  稲  田  朋  美

弁護士  高  池  勝  彦

弁護士  岩  原  義  則

弁護士  大  村  昌  史

弁護士  木  地  晴  子

弁護士  本  多  重  夫

                  弁護士 中  村  正  彦 
弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原 洋   司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 



第1 『秘録沖縄戦記』復刻版における《隊長命令説》の削除
 
1 『秘録沖縄戦記』の復刻 
 被告らは、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の真実性を示す有力資料として、1958(昭和33)年『秘録沖縄戦史』(乙4)、さらにはそれを著者山川泰邦が全面改訂した1969(昭和44)年『秘録沖縄戦記』(乙7)を挙げており(被告第1準備書面13頁以下、16頁以下、同21頁以下、同24頁以下)、確かにそれらには具体的に原告梅澤及び赤松大尉による自決命令が記されている(乙7・156頁以下、147頁以下。この乙第7号証を『秘録沖縄戦記』の「元版」という)。
この『秘録沖縄戦記』は長く絶版になっていたが、平成18年10月に、著者山川泰邦の長男であり那覇市役所助役職にあった山川一郎が発行者となり、新星出版株式会社から復刻された(甲53)。
 注目すべきなのは、この復刻版においては、元版に記載されていた原告梅澤及び赤松大尉による自決命令の記述が、完全に削除されていることである。
 以下、この点を詳述する。

 2 座間味島の集団自決について
座間味島の集団自決については、『秘録沖縄戦記』の元版(乙7)の記述は下記のとおりである。        
「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。
 それは、『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。
 従順な村民たちは、老人も子供もみな晴れ着で死の装束をすると、続々と集まってきた。間もなく忠魂碑前は、村民で埋まった。梅沢少佐と村長が来るのを待って、自決が決行されることになっていた。」(156頁)
「そのほか、軍刀で家族全員を刺し殺したり、亜砒酸、小刀、かみそり、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、および親しい者同士がお互いの血を浴びて倒れた。梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七十五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した。」(158頁)
   これが復刻版では、下記のとおり改変されている。
「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民たちは、老人も子供もみな晴れ着で死の装束をすると、続々と集まってきた。間もなく忠魂碑前は、村民で埋まった、自決が決行されることになっていた。」(187頁)
「そのほか、軍刀で家族全員を刺し殺したり、亜砒酸、小刀、かみそり、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、および親しい者同士がお互いの血を浴びて倒れた。十八日、七十五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した。」(188、189頁)
 原告梅澤による自決命令はおろか、軍の関与を示す叙述も全くなくなっている。
 
3 渡嘉敷島の集団自決について
 渡嘉敷島の集団自決については、『秘録沖縄戦史』(乙4)の記述は下記のとおりである。
「敵の砲弾は的確にこの盆地にも炸裂し始めた。友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた。自信を失い、負け戦を覚悟した軍は、住民を道づれにして一戦を交え花々しく玉砕するつもりであろうか。
 この期に及んで部落民は誰も命は惜しくはなかった。」(218頁)
そして、それを改訂した『秘録沖縄戦記』元版(乙7)でも、下記の記述がなされていた。
「 敵の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期に及んで、だれも命など惜しいとは思わなかった。」(148頁)
   ところが、復刻版(甲53)においては、
「 米軍の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。住民はこの期に及んで、だれも命など惜しいとは思わなかった。」(179頁)
と改訂され、「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった」との元版記載が完全に削除されたのである。
 
4 改訂の理由
 この重大な改訂の説明として、復刻版(172頁)においては、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(1974年)並びに『沖縄資料編集所紀要』(1986年)を参考に、慶良間諸島における集団自決等に関して、本書元版の記述を一部削除した。なお集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい。」(172頁)と「集団自決」の章の冒頭に断り書がある。
 参考にしたとされる『沖縄県史第10巻』(1974年)は、渡嘉敷島において「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」とする『沖縄県史第8巻』(1971年)(乙8・410頁)を訂正し、「どうして自決するような破目になったか、知る者はいないが、だれも命を惜しいと思ってはいなかった」としている(乙9・690頁)。
また、『沖縄資料編集所紀要』(1986年)には、もともと『第8巻』の当該記述は、山川泰邦の『秘録 沖縄戦史』(乙4)を参考にして命令内容が書かれたとされており(甲B14・37p)、それが『第10巻』で資料考証のうえで訂正されている以上、『秘録 沖縄戦記』(乙7)の当該記載も訂正が必定であったといえよう。『第10巻』に載録されている複数住民の証言もこの訂正を裏付けるものであった。
 座間味島における集団自決についても、宮城晴美がその『母が遺したもの』(甲B5)のなかで述べているように、『第10巻』に収載された複数の住民の証言には一切出て来ないにもかかわらず、大城将保が執筆した解説には宮城初枝が書いた『血塗られた座間味島』に基づいて原告梅澤の命令が記載されていたのであったが(甲B5・258〜259p)、『沖縄資料編集所紀要』(1986年)には、執筆者の大城将保によって、その経緯が記載されたうえ(甲B14・37p)、原告梅澤の手記が「史実を解明する資料」として掲載されている。そして、座間味島において昭和20年3月25日に原告梅澤を村の幹部が訪ね、「村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。」と頼んだが、原告梅澤が「決して自決するでない。」「弾薬は渡せない。」と拒絶した、という内容を含む原告梅澤の手記について、宮城初枝が「真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」と大城将保が記し、これによって事実上の県史訂正がなされているのである(甲B14・46p)。こうしたことが『秘録 沖縄戦記』の復刻改訂にあたって参考にされたのである。
 なお、この『秘録沖縄戦記』復刻版の発行は山川一郎によってなされているが、上記のような重大な内容の改訂については、復刻版の著者が山川泰邦のみとされていることからうかがえるように、山川泰邦が、その生前から意図していたものと解される。山川泰邦が死去したのは1991(平成3)年であるが、改訂の根拠となった上記の『沖縄県史第10巻』(1974年)及び『沖縄資料編集所紀要』(1986年)の発行は、山川泰邦の生前になされており、山川泰邦がそれらの新資料を入手検討していたことは確実だからである。

 5 史実の検証に耐えられなくなっている《梅澤命令説》《赤松命令説》
この改変が示すことは、《梅澤命令説》《赤松命令説》が史実の検証に耐えられず、むしろ、真実でないことが今や完全に明らかになっているということである。
 そして、通常の人権感覚や良識を有する発行者や出版社は、誤った記載のあることが明らかになった過去の出版物は、絶版にしたり、復刻をする際には誤りを修正するということを当然になすものなのである(復刻版を発行した山川一郎にしても、出版した新星出版株式会社にしても、本件原告らを擁護しようとする思想傾向をもつものではなく、むしろ沖縄県人、沖縄の出版社として、沖縄の戦争被害を強く訴えようとする基本的立場にあるものであることに留意されたい)。
 本件訴訟でも問題とされている「真実に反する記載」が、些細な事実の誤認ではなく、戦中戦後を誠実に生きてきた2人の市井人を、集団自決の命令者すなわち「住民大量虐殺の責任者」と断罪糾弾する極めて重大な内容を有する誤りであることからすれば、復刻にあたり上記のような全面削除がなされるのは、当然といえば当然のことである。
これに引き比べると、被告らの姿勢は全く対照的である。「書いたときは通説だったのだ」、「歴史検証の成果は受け入れる必要はない」、「著名な文学者、歴史家の価値ある著作に訂正は無用」、「悪い日本軍の一員だったのだから仕方ないだろう」、「これからも訂正もせず、絶版にももちろんしない」・・・、被告らが(言外に)示す態度は、あまりに傲岸なものといわざるを得ない。
 名声高き文筆家であり著名出版社である被告らに対しては釈迦に説法ではあろうが、「ペンの暴力」という言葉がある。「ペン」、すなわち報道出版は、人を殺すに等しいほどの暴力的な効果をも容易にもたらすことがある。
被告らが書き、現に今でも販売している書籍に記された《梅澤命令説》、《赤松命令説》は、被告らが有名で社会的信用も高い文筆家、出版社であることもあいまって、原告梅澤、故赤松大尉ら当人や、その近親者にとっては、その社会的評価や敬愛の情を例えようもなく傷つけるものであり、まさしく「ペンの暴力」そのものである。 
 本件訴訟で原告らに対しこの被害からの救済の道が拓かれなければ、もう二度と、原告梅澤の名誉回復や、原告赤松ら故赤松大尉の近親者の敬愛追慕の情の保護の機会は、巡ってこないであろう。
   被告大江健三郎は、かつて『石に泳ぐ魚』事件において裁判所に提出した陳述書(甲B50)のなかで、作品によって傷つき苦しめられる人間をつくらぬよう配慮して書き直すことの必要を述べ、「その発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまで尊重されねばなりません。」と言っていたはずである。被告らがなすべきことは余りにもはっきりしている。

6 補足−『潮だまりの魚たち』−
 今回原告側が入手提出した書証に、2004(平成16)年6月発行の『潮だまりの魚たち』(甲B59)がある。
 この書籍は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集であり、集団自決に触れられている箇所も多数あるが、伝聞も含め、集団自決に関する梅澤命令あるいは軍命令には、全く触れられていない。それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、原告梅澤が村民の女性らに山への避難を命じた(163頁)、あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した(167頁)などの、軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されているのである。
 これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。
 このように、近年著される書籍においては、緻密や調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされない(あるいは根拠の不確かなものとして記述されない)のが一般なのである。 

第2 「沖縄ノート」における「軍命令」の内容 

1 被告らは、原告が主張している「軍命令」の不存在について、事実から目を背け、意図的に論点ズラシを行うなどして責任を免れようとしている。今一度、「軍命令」の中身について記載し、被告らが主張・立証すべき真実性・相当性の対象を明らかにしておく。
   「沖縄ノート」には、
    「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座 間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれの間に埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」
とある。
   『沖縄戦史』の記述を引用する形で述べられている《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》との記載こそが、被告大江健三郎が事実として摘示した「軍命令」の内容であり、その後の「沖縄ノート」における赤松元隊長に対する諸々の人格非難は、いずれもこの「軍命令」の内容を前提とする論評なのである。
さて、この「軍命令」の内容は、定義集(甲B57)で被告大江健三郎が述べている「命令」の内容とはかなり異なる。

2 対象となる集団自決、「命令」の主体について
  まず、『沖縄ノート』において被告大江健三郎が対象としている集団自決は、
   「七百人を数える老幼者の集団自決」
「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」
との記載は、記載された七百人という犠牲者数(被告大江健三郎が対象としているという渡嘉敷島での犠牲者数よりかなり多い。)や「座間味村、渡嘉敷村」との記載があることから、「渡嘉敷島」の集団自決は勿論、「座間味村」の集団自決についても対象に含めていることは明らかである。
  この記載は、「上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたる」と引用文献を下敷きに記載しているように、被告大江健三郎の論評(それは論評とは言い難い中傷ではあるが)とその論評の前提となった事実について、それを端的にいっているのが「上地一史著『沖縄戦史』」の記載であるとしているのである。即ち、「この事件の責任者」に対する論評(人格非難)の前提となる事実は、引用文献である「上地一史著『沖縄戦史』」とが一体化していると認められるべきである。
  『沖縄ノート』の一般読者は、『沖縄ノート』において直接記載がある上記の記載から、どの場所における集団自決のことを言っているのかを把握し、更に、一般読者は、引用文献である「上地一史著『沖縄戦史』」から、赤松大尉・原告梅澤少佐が集団自決命令の主体者として糾弾されていることも把握できる。つまり、『沖縄ノート』の一般読者は、「座間味村、渡嘉敷村」に駐留した「本土からの日本人の軍隊」の「部隊長」である「この事件の責任者」の記述につき、赤松大尉は勿論、原告梅澤少佐も含まれていることを明白に認識するのである(なお、「座間味村」「渡嘉敷島」「部隊長」という『沖縄ノート』自身の記載だけから、それが赤松大尉・原告梅澤少佐であると特定できることは、従前の主張どおりである)。
  つまり、『沖縄ノート』は、赤松大尉・原告梅澤少佐を、命令の主体者と断定していることを前提に、その後延々と続く凄まじい人格非難を展開しているのである。

3 命令の内容について
  命令の内容については、『沖縄ノート』自体に記載されており、
   「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」
とある。これこそが、本件において被告らが真実性・相当性を主張・立証すべき「命令」の内容である。
そして被告大江健三郎は、この命令の記載の直後に、

   「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」

と評価論評している。これこそが、「沖縄ノート」の主題でもあり、上記事実を前提にした評価評論であるが、被告大江健三郎は、その主題となった論評を超えて、峻烈な人格非難をしているのである。
例えば、被告大江健三郎は、住民に対し、
  「部隊の行動を妨げないために、また食料を部隊に提供するため」
と命令したことを指して、
  「沖縄の民衆の死を抵当」
と評価している。そして、住民に自決せよと命令しながら、本土からの軍隊だけが生き残ったことを指して、
   「本土の日本人の生」
と評価している。
  被告大江健三郎の評論の前提となった事実は、「沖縄の民衆の死を抵当」と対比される「本土の日本人の生」という評価論評を示すことができる中身を持った「命令」であり(後述する《無慈悲直接隊長命令》である。)、これとは異なる「命令」の存在についていくら主張・立証しようとしても、名誉毀損の前提となる事実の真実性を主張・立証したことにはならないのである。
   上地一史著『沖縄戦史』は、上記命令について、
  「はなはだ無慈悲な命令を与えた」
と論評しているが、被告大江健三郎は全く同じ前提事実を基に同様の、更に進んで、それ以上の辛辣な表現をもって最早論評とは言えない凄まじい人格非難をしているのである。

4 被告らの論点ズラシの手法について
  本件の争点は、上記『沖縄ノート』に記載された命令の事実の有無、すなわち、赤松大尉・原告梅澤少佐が、沖縄島民に対して直接住民を犠牲にして本土の日本人が生き延びるためだけに言ったとされる「命令」の事実の有無であるが、当該「命令」は「沖縄の民衆の死を抵当」に「本土の日本人の生」が表れる「無慈悲な命令」が内容となっていなければならない(以下、この趣旨も込めて《無慈悲直接隊長命令説》と名付ける)。
しかしながら、被告らは、この命令の事実の有無について何ら言及しようとはせず、論点ズラシの詭弁を弄するばかりである。命令の事実の有無については、「集団自決の主体者」としての事実の有無、「命令の中身」としての事実の有無とに大きく分けられるが、「集団自決の主体者」としては、赤松大尉・原告梅澤少佐は集団自決の命令をしていないと明確に否定しているにも関わらず、『沖縄ノート』はこれを断定しており、被告らとしては、赤松大尉・原告梅澤少佐の命令と断定できるという事実を主張立証する必要があることになる。また、「命令の中身」の事実についても、名誉毀損対象文書に記載された《無慈悲直接隊長命令説》に沿った命令の事実が真実か否かという点が争点になる。被告らは、主体者としての真実性、命令の中身についての真実性を一緒くたにして次の各説を弄するが、いずれも主体者としての事実の有無についても、命令の中身としての事実の有無についても主張・立証は不足していると言わざるを得ず、また、いずれも詭弁と言わざるを得ないものである。
  被告らは、
   @「手榴弾を渡した」ことが自決の「命令」だとする「手榴弾(交付=)命令説」、
   A 戦前の皇民化教育、「共生共死」の思想等政治体制による強制的雰囲気が、集団自決を生んだ「命令」だと評する「政治体制命令説」、
  B 慶良間列島での「集団自決」が日本軍の指示、強制等によりなされたことを「命令」と評する「広義の強制(広義の命令)説」
等を展開している。
まず、@手榴弾(交付=)命令説には少なくとも二つの大きな問題点が存在する。
すなわち、まず、手榴弾(交付=)命令説は、いわば解釈の問題を論じているに過ぎず、主体者としての事実を断定できるものではなく、また、《無慈悲直接隊長命令》の中身の事実の有無を立証できるものでもないことである。つまり、手榴弾(交付=)命令説は、防衛隊等が渡したとされる手榴弾交付行為を、島の軍隊の責任者である赤松大尉、原告梅澤少佐の行為であると「評価する」というもので、手榴弾交付→赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》の事実が認められるということにはならないのであり(十分条件ではない。)、事実として「手榴弾を渡したという事実」と上記無慈悲な直接的な命令を言ったということは、どこまでいっても「イコール」とはなり得ず、真実、無慈悲で直接的に命令を発したと立証できるものでは到底ないのである。繰り返すが、『沖縄ノート』は《無慈悲直接隊長命令》の命令主体者として断定した記述をしているのである。
今ひとつの大きな問題点は、仮に「手榴弾(交付=)命令説」が事実であっても、「手榴弾(交付=)命令説」は、「沖縄ノート」等本件名誉毀損文書に記載された「命令」の中身とは、大きく異なり、名誉毀損の前提となる事実の対象とは大きく異なるという点である。 本件における赤松大尉率いる赤松隊、原告梅澤少佐率いる梅澤隊は、特攻隊の役目を背負い、自ら死ぬことが予定されていた。そして、特攻の後に生き残る住民に対して、「万が一のために」手榴弾を交付することは、「沖縄の民衆の死を抵当」とはいえず、手榴弾を交付したとされる特攻隊員には「本土の日本人の生」も予定されていない。「沖縄ノート」は、「沖縄の住民の死」と、「本土の日本人の生」とを対比させることに主眼が置かれていることは間違いがない。その例として、被告大江健三郎は、赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令説》を出しているのであるが、「生」を考えない若しくは予定しない特攻隊たる「本土の日本人」が、「万が一のために」、生き残っているはずの「沖縄の住民」に対し、手榴弾を交付することになれば、被告大江健三郎が予期し前提とした「沖縄の民衆の死を抵当に」「本土の日本人の生」と評価して論ずることはできないはずである。特に、アメリカ軍の非道な無差別攻撃が展開されているなかにおいて、少なくとも当時の日本人がアメリカ軍の残虐性を信じていた状況下で、将来上陸するアメリカ軍の非道な行為による苦痛と汚辱の末に殺されるか、それとも自決の途を選ぶかという究極的な選択をする場面において、「万が一のためには」として事前に手榴弾を渡したことを以て、「沖縄の民衆の死を抵当」と評価することはできないのであり、ましてや、曽野綾子が「人間の立場を超えたリンチ」と評したほどの凄まじい人格非難の言葉(「罪の巨塊」「屠殺者」「戦争犯罪者」「アイヒマン」等)を連ねることを正当化できるものでもないのである。被告ら主張の事実を前提にするとその人格非難表現の正当化ができないということは、被告らが敢えて前提としていた事実と異なることを主張しているということである。
この「手榴弾(交付=)命令説」が出現した経過としても、曽野綾子の『ある神話からの背景』等で赤松隊長による《無慈悲直接隊長命令説》の根拠がなくなった後に、突然「命令説」の根拠として広められてきたものである。被告らは、この@説を主要な根拠としているようであるが、これは事実に目を背けた詭弁と言わざるを得ないのである。被告大江健三郎は、仮に防衛隊等が自決の為に手榴弾を配ったと『沖縄ノート』に命令の内容が記載されており、これを以て「沖縄の民衆の死を抵当に」「本土の日本人の生」をそもそも論ずることができるのか、そして、その事実を以て「罪の巨塊」「屠殺者」「戦争犯罪者」「アイヒマン」等と最大限の人格非難していることが正当化できるのか考えてみるべきである。正に『沖縄ノート』は、少なくても赤松大尉が、《無慈悲直接隊長命令》を出した張本人であり、世紀の悪人であるとの誤った事実を断定していることで成り立ち得るのである。
なお、被告大江健三郎は、「定義集」(甲B57)において「両島で四百三十人を越える「集団自決」の死者があり、島民が集まって行動を起こす日、守備隊長二人が、これまで軍の命令したことは取り消す、「自決」をしてはならない、という新しい命令を出すこともなかった」という、名付ければ「命令取消・新命令不作為説」を新たに展開している。甲B57には、手榴弾を事前に渡したことも記載されており、これも、「手榴弾(交付=)命令説」の一態様と考えることができる。しかし上記の指摘、特に「手榴弾(交付=)命令説」では、「沖縄の民衆の死を抵当」に「本土の日本人の生」を論ずることができない矛盾を含むものであることについての弁解、『沖縄ノート』に記載された《無慈悲直接隊長命令説》とは異なっていることについての説明は、被告大江健三郎からは一切ない。そもそも、「命令取消・新命令不作為説」は、先行する命令において《無慈悲直接隊長命令説》と同視できるという倫理的評価がある場合にはじめて成立しうるものである。いずれにしても、「沖縄の民衆の死を抵当」に生き残った「本土の日本人の生」を論ずる前提事実とすることはできないのである。つまり、『沖縄ノート』の記載をそのままにしたままで、他の説を展開することによって正当化することはできないのである。

  続いて、A「政治体制命令説」は、これも赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》の事実の有無を立証するものではなく、解釈と評価の次元に逃げ込むものということができる。「手榴弾(交付=)命令説」より《無慈悲直接隊長命令》の立証からは、より遠くなっているともいえ、被告らの責任を免れるためだけの詭弁にすぎない。「政治体制命令説」により、当時の政治体制から《無慈悲直接隊長命令》を立証するということになれば、当時の政治体制は、軍を頂点とし軍人の命令は、その地位によらず、日本国内全ての人、沖縄の離島の島民まで含んだ範囲で、その生死まで隅々に且つ徹底的にコントロールできるような政治体制であったということが前提となるはずである。このような軍人から死ねと言われれば素直に民衆が従い自らが死ぬ(粛正等による他人による殺害ではなくである)という体制は、最も体制化されたとされるソ連や中共、北朝鮮、ポルポト体制化等でも寡聞にして聞かない。しかも「政治体制命令説」を徹底すれば、その主体は、「政治体制」を左右するような強大な権力者(例えば、スターリンや毛沢東があてはまるであろう)でなければならないはずであるが、被告らは、この者らを非難しているのではなく、赤松大尉・原告梅澤少佐を命令主体者と断定的に決めつけ非難の限りを尽くしているのである。「政治体制命令説」からは、軍隊の組織的立場として頂点とは言えない赤松大尉・原告梅澤少佐を、「沖縄の民衆の死を抵当」にした人物であると断定することはできないはずであるし、政治体制が自決を促したという側面があったとすれば、赤松大尉・原告梅澤少佐に関わらない誰でもが政治体制の故に自決を促すことがありえたということになり、それこそ赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》の根拠は薄くなる。
   このように「政治体制命令説」は、仮に事実的基礎を有するものであると措定しても、先に述べた「手榴弾(交付=)命令説」と同じ問題点を含む。例えば「共生共死」の思想であるが、正に文字通り、「共に生き」「共に死ぬ」というのであれば、「沖縄の民衆の死を抵当」に生き残った「本土の日本人の生」という評論の前提となる事実が異なることになる。「沖縄ノート」では、「抵当」という言葉を用いて、死ぬべきでない「沖縄の民衆」の死を、犠牲ないしスケープゴートにして、生き残った「本土の日本人の生」を論ずることが大きなテーマとなっているはずであるが、「共に生き」は勿論、「共に死ぬ」でも、前提となる事実が異なるのである。
 
最後に、B「広義の強制(広義の命令)説」は、上記被告らの説に重複して主張されるものでもあるが、本件の争点は、事実として赤松大尉・原告梅澤少佐が《無慈悲直接隊長命令》の主体者として断定できるか、そして、《無慈悲直接隊長命令》の事実の有無である。
しかし、「広義の強制(広義の命令)説」は、赤松大尉・原告梅澤少佐とは異なる者の言動、《無慈悲直接隊長命令》とは異なる内容、本件名誉毀損対象文書の記載とは異なる場所、異なる時間の言動の「命令」「指示」「誘導」「示唆」等があり、「強制」があったに違いないとして「命令」の存在を推認するものである。主体としては、何ら特定されない一般の「兵隊」からの言動を捉えたり、住民らが受け取った言動について「何らかの強制がありました」「命令があったに違いありません」等との評価を加えるものもあり、その内容としても一定しない。
「広義の強制(広義の命令)説」は、本来の主張立証対象となるべき《無慈悲直接隊長「命令」》の範囲を被告らの都合良く拡大解釈し、特定されない「命令」「指示」「誘導」「示唆」等から、何らかの「強制」(命令)があったとして、本来の立証の対象となるべく赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》の事実の有無を脇に置き、いわば広義の「命令」を主張することにより対処するものである。「広義の強制(広義の命令)説」は、到底、赤松大尉・原告梅澤少佐を命令の主体者と断定できるものでもなく、肝心の《無慈悲直接隊長命令》の事実を立証できるものでもない。これも、「手榴弾(交付=)命令説」と同じく、事実から目を背け解釈乃至評価で対処しようとするもので名誉毀損の対象となる事実の真実性・相当性判断における対象とは異なることになる。しかも、何らかの「命令」というように命令主体と命令の内容を曖昧抽象化し、その事実の有無について不明確にしたまま、何らかの「指示」等の本来の《無慈悲直接隊長命令》とは異なる事実を「命令」と強  弁し、立証対象を意図的にごまかすものでもある。
広義の「強制(命令)」を主張・立証しても、本来主張立証の対象となる赤松大尉・原告梅澤少佐の《無慈悲直接隊長命令》の事実を主張・立証したことにはならない。本来の立証対象を意図的にごまかし混乱させることにより、自己の記載の責任を免れようとする姿勢は不実である。まずは、「沖縄ノート」等が前提としている赤松大尉・原告梅澤少佐を《無慈悲直接隊長命令》の命令者と断定した根拠、そして、《無慈悲直接隊長命令》の「事実の存在」の根拠が必要となるはずである。
 
   これら被告らの@〜B説は、分析すれば、次の2通りの方法で使われている。
   つまり、まずは、例えば@において手榴弾を渡すことを防衛隊等が黙認していたことは、赤松大尉・原告梅澤少佐が「命令」したものと推測できるとして、《無慈 悲直接隊長命令説》の間接事実的な根拠とするものである。これは、住民が自決命令が出ていたものと思っていたという被告らの主張(これはB説に近い)と同様に、これらの事実が認められたとしても、必然的に赤松大尉乃至原告梅澤少佐が、《無慈悲直接隊長命令》を出したと断定できることにはならない(必要条件・十分条件の論理の問題でもある。)。また、命令の中身の事実としても、米軍の日本人(軍人・民間人も含む)に対する非道は単なるプロパガンダではなく、少なくとも非道が民間人に対してなされると住民も兵隊も信じていたという事実があり、その事実を前提として、米軍上陸の前に自決のために「万が一のための」手榴弾を渡すことは何ら非道でも非倫理的でもないし、上記《無慈悲直接隊長命令》の内容でもない。被告らの@〜B説による根拠は、被告大江健三郎が、曽野綾子が「人間の立場を超えたリンチ」と評したほどの凄まじい人格非難の言葉(「罪の巨塊」「屠殺者」「戦争犯罪者」「アイヒマン」等)を連ねることを正当化できるほどの強い根拠とは到底いえないし、@〜B説が主張されたからといって、記載が変わっていない名誉毀損対象文書を、そのように読み込むものとも到底できないのである。 
   そして、今一つは、上記に見てきた論点をズラスためだけの詭弁的方法による使用である。主体、命令の具体的中身について、前提としている事実とは異なる事実を主張することにより、前提としている事実を曖昧にしたまま自己を正当化させる詭弁的方法を用いて混乱させることは、真実の発見に迫る裁判の目的としても排除されてしかるべきものである。
   本件の争点は、あくまで名誉毀損対象文書に記載されている赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接的隊長命令》の事実の有無であり、それ以外のなにものでもない。

第3 被告大江健三郎に対する尋問の必要性について
  1 被告らは、被告大江健三郎に対する本人尋問を証拠申請せず、原告らによる申請につき、その必要性がないとしている。 
    しかし、これまで被告大江健三郎は、『沖縄ノート』に事実として記載した「日本人の軍隊の《部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」につき、その執筆の根拠を十分に主張・立証しているとはとてもいえないばかりか、当該記載をなんら訂正することなく、本件提訴後も50刷を新たに発行し、現在も販売し続けていることを正当化する理由については本件訴訟においては、ほとんど何も論じてこなかった。 
    そして平成19年4月17日の朝日新聞コラム「定義集」において、「私は1965年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄戦から五年かけての徹底的なインタビューについて聞きました。氏が執筆者のひとりである『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同世代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。」とはじめて『沖縄ノート』執筆の根拠資料等について明らかにした。       
    ところが、被告大江は、『沖縄ノート』の出版後に公表された曽野綾子著『ある神話の背景』が『鉄の暴風』における《隊長命令説》が当事者の取材を経ない伝聞に過ぎなかったことを暴露し、その信憑性を大きく揺るがした『ある神話の背景』には全く触れようとしない。『鉄の暴風』にも登場する安里喜順や知念朝睦といった直接の証人が、赤松隊長の命令を完全に否定していることについても沈黙し、その後出版された『沖縄県史第10巻』や家永三郎著『太平洋戦争』から《赤松命令説》の記述が削除されたことについても全く論及しない。ももちろんのことながら、沖縄人の立場から沖縄戦を告発してきた上原正稔が『沖縄戦ショーダウン』で赤松隊長の命令を虚偽だとして、現在も旧日本軍を厳しく糾弾する大江志乃夫や林博史が、その著作のなかで、赤松隊長命令の存在に疑問を呈していることについても何ら触れるところがないのである(甲B36、37)。
    『沖縄ノート』における赤松隊長らに対する人格非難は、『ある神話の背景』の著者である曽野綾子をして「『罪の巨塊』などと神の視点に立って断罪したことは、人間の立場を越えたリンチである」(甲B3)と言わしめるほどの激烈なものである。被告らは、かかる激烈な人格非難を含む『沖縄ノート』を本件訴訟提起後も新たに50刷を発行し、全国の書店における販売を継続し、もって原告らの心情と名誉を激しく侵害し続けているのである。
    また、かつて被告大江は、柳美里の『石に泳ぐ魚』の名誉毀損性が問われた裁判に陳述書を提出し、その作品によって傷つき苦悩する人間が生じないよう配慮して何度でも書き直す必要を説き、「その発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまでも尊重されねばなりません」と述べている(甲B50)。
かかる思想をもっているはずの被告大江が、「人間の立場を超えたリンチ」と評される表現を一切書き直さないまま、現在も販売し続けている理由について被告大江に直接問い、その倫理的根拠と矛盾の有無を明らかにする権利を原告らは有しているはずである。
    とりわけ被告らは、渡嘉敷島における赤松隊長の命令につき、当事者の赤松隊長が死去していること等をもって、原告側において単なる虚偽ではなく「全くの虚偽」であることを立証すべきだと主張しているのであるが、原告らは、その立証には、著者である被告大江に対する直接の尋問を行うことが不可欠であると考えている(単なる虚偽性であれば客観的資料に基づき決定しうるとしても、客観的な虚偽を超えて『全くの虚偽』というには、その主観性をも問題にすべき事柄である)。   
    またこのことに関して「定義集」には、現在被告大江が「軍が島民との接点で、二発あたえる手榴弾の一発で敵を殺し、もう一発で『自決』するよう命令したこと」を確信していることが述べられているが、『沖縄ノート』に記載されている《部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という軍命令ではなく、手榴弾の交付をもって「命令」と解釈することについての論拠と、それが「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という『沖縄ノート』の主題とどう結びつくのか、また、その事実が「人間の立場を超えたリンチ」と評される『沖縄ノート』の本件各記述をどのように正当化するものであるかについて、著者の見解を直接確認する必要があるのである。
被告大江は、本件訴訟提起直後、同じく朝日新聞のコラム「伝える言葉」において「求められれば、私自身、証言に立ちたいとも思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです」と約束した(甲B56)。
言葉に矛盾する行動は、その言葉を蔑ろにすることであり、なによりも言葉を発した者に対する信頼を失わせる。それが著名な作家とあれば、およそ「言葉」に対する信頼は地に墜ちる。
被告大江は、「伝える言葉」で述べた自らの言葉を裏切るべきではない。
                                  以上



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曾野綾子先生のインタビュー番組H19.5.17(日) 

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曾野綾子先生のインタビュー番組H19.5.17(日)

曾野綾子先生のインタビュー番組が以下の通りあり、東京MXテレビをご覧になる事ができる方は必見です。
5月27日(日)20:00〜20:55 
再放送です。沖縄集団自決に関して実に多く語ってくださっています。それ以外のお話しも示唆に富むお話しばかりで、例えば、「貧困の定義
とは、その日の夕食に食べるものがない」と言うことです。「それ以外は貧困に入りません」と曾野先生は断言され、南木は実に共感できます。
http://www.mxtv.co.jp/hanada/

いま一番ホットな月刊誌「月刊WILL」の編集長花田紀凱が、毎回ビッグなゲストを招き旬のテーマを微に入り細に入り尋ねま
す。とにかく面白い!オトナの好奇心がいっぱいのトーク番組です。

花田紀凱プロフィール
月刊「WILL」編集長。1942年東京生まれ。「週刊文春」編集長時代に同誌を日本一の週刊誌に育てた。「マルコポーロ」
「UNO!」「編集会議」等の編集長を経て現在。
また「マスコミの学校」を主宰し、後進の指導にあっている。






第8回ゲスト:作家・曽野綾子さん
サブタイトル「その目で見た真実」
【初回】5月12日(土)21:00〜21:55
【再放送】5月27日(日)20:00〜20:55 
作家活動とともにNGO活動に熱心な曽野さん、今でもアジア・アフリカの貧民救済に現地を訪れる。そこでの貧困とは
「今晩食べる物がない」こと。まず自分の目で確かめることが大切という。



第7回ゲスト:東京大学大学院教授 松井孝典(まつい たかふみ)さん
1946年(昭和21年)静岡県生まれ。東京大学理学部地球物理学科卒業。理学博士。比較惑星学の研究者でありながら、恐竜
絶滅の原因となった隕石衝突の跡を追ってメキシコ・ユカタン半島を訪れたり、古代エジプトの遺跡発掘隊に参加するなど世界中を駆け回る。地球
システム内で「生物圏」から分化した「人間圏」という新しい概念を提示し、マクロな視点から人間存在や環境保護のあり方について語る。著書に
『1万年目の「人間圏」』(ワック出版)、『コトの本質』(講談社)などがある。
第6回ゲスト 評論家・金美齢(きん びれい)さん
台湾・台北生まれ。1959年に来日、早稲田大学文学部英文学科入学。同大学院文学研究科博士課程終了。ケンブリッジ大学
客員研究員、早稲田大学講師を経て現在はJET日本語学校理事長。軽佻浮薄なメディア報道への辛口コメントに共感するファンは多い。著書に「日
本が子どもたちに教えなかったこと」(PHP研究所)、「日本ほど格差のない国はありません」(ワック出版)などがある。
第5回ゲスト 評論家 日下公人さん
1930年(昭和5年)兵庫県生まれ。
東京大学経済学部卒業。日本長期信用銀行取締役ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。
ソフト化・サービス化の時代を見越すなど日本経済の名ナビゲーターとして有名。近著に『闘え、日本人』(集英社インターナ
ショナル)『よく考えてみると、日本の未来はこうなります。』(ワック出版)などがある。
「花田紀凱 ザ・インタビュー」新春特番
上智大学名誉教授・渡部昇一さん
「本と共に生きる」
本をこよなく愛する渡部さんは、喜寿を迎える今年95歳までのローンを組んで蔵書用の書庫を増設されたとの事。15万冊に及ぶ
内外書籍の中には「1冊に退職金のすべてをつぎ込んだ」ものもあるなど、ご自身の人生における書籍の価値について語り尽くします。




※なお、この番組は番組放送日の深夜0時よりNTT東日本のフレッツご利用者専用サイト「フレッツ・スクウェア」でもご覧頂く
ことが出来ます。
「フレッツ・スクウェア」はこちらから→
http://flets-square-guide.com/hobby/index.html



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2007年03月30日

沖縄集団自決冤罪訴訟原告準備書面(7)

http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/

第8回口頭弁論

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/28/


平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件   
原  告  梅澤  裕 外1名
被  告  大江健三郎 外1名 

原告準備書面(7)
平成19年3月30日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
           
               原告ら訴訟代理人
弁護士  松  本  藤  一

弁護士  コ  永  信  一

弁護士  稲  田  朋  美

弁護士  高  池  勝  彦

弁護士  岩  原  義  則

弁護士  大  村  昌  史

弁護士  木  地  晴  子

弁護士  本  多  重  夫

                  弁護士 中  村  正  彦 
弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原 洋   司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 


第1 序   ‥‥‥‥‥‥‥‥ 4


第2 「慶良間列島作戦報告書」と集団自決命令について ‥‥‥‥‥ 4



第3  援護法における救済拡大の経緯に関する被告らの主張の問題点 ‥‥‥ 18


第4 《梅澤命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論 ‥‥‥‥ 27


第5 《赤松命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論 ‥‥‥‥ 46


序 はじめに
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沖縄集団自決冤罪訴訟第8回口頭弁論原告準備書面 http://minaki1.seesaa.net/より続く。

序 はじめに



第1 「慶良間列島作戦報告書」と「集団自決命令」について
1 資料と被告ら主張の問題点について
被告らは、準備書面(7)の第1の1(米軍の「慶良間列島作戦報告書」−「軍の自決命令」の存在)において、@乙35の1、乙35の2の「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」を基に、A本件「座間味島」・「渡嘉敷島」における集団自決、及びB軍の「命令」の存在を主張している。
しかし、以下に詳述するように、「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」の記事(乙35の1、乙35の2)は、いずれも本件における「原告梅澤少佐」ないし「赤松大尉」による「座間味島」ないし「渡嘉敷島」における集団自決「軍命令」の存在を立証するものでは到底ない。むしろ、注意深く読めば、それは、「軍命令」が存在しなかったことを示しているす証拠というべきものである。

2 @乙35の1、乙35の2「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」について
⑴ 原本ではない二次資料性について
    まず、そもそもの問題は、被告らの主張は、沖縄タイムスに一部分が掲載されたのみで、全文でもなく、どのような文脈の中で記載されたかも判らないものを、乙35の2の林教授の見解意見をも混在させた上で議論している点である。
    被告らが主張するように、米軍の公文書である「作戦報告書」に記載があるというのならば、まず、そもそも、乙35の2に見られる特定の意見を持つ林教授の見解意見を除いた形で、純粋に文書から、どのようなことが読み取ることが出来るかという作業が必要となるはずである。
    しかも、乙35の1、乙35の2に記載の英文は、本件とは関係がない座間味村「慶留間」(「げるま」と読む。)島のものであって、肝心の座間味村「座間味島」に関する作戦報告書については、沖縄タイムスの記事(乙35の1)にも、林教授の論説(乙35の2)にも、林教授が訳したとみられる(以下にも述べるが、この翻訳も恣意的であると言わざるを得ない。)訳文の記載しかないのである。
⑵ 米軍資料の特殊性と情報戦について
   それをおいても、被告らの主張によると、対象となっているのは米軍の「作戦報告書」ということである。被告らの主張は、米軍資料が全て「正しく」「中立的」に記載されていることが当然の前提となっているが、当時の敵国の、しかも、自らの部隊の戦果を報告する目的(当然、公文書という形で部隊の武勲を公的に表すことで、それは後に軍人としての評価に繋がるものである。)を有する「作戦報告書」が、その文書の性質から、「正しく」「中立的」に記載されているとは、到底言えないのである。そして、米軍は、対日本戦において、極めて情報戦略を重視していたことが今日では明らかになっている。沖縄出身者を含む多くの日系二世(アメリカ人である。)が通訳尋問役として活躍しているのであり、この点においても尋問の結果の記載が「正しく」「中立的」なものとして受け入れることには慎重にならなくてはならない。
当時、アメリカとしては、「正義のアメリカ軍」、「不正義の日本軍」という図式を必要とし、これを情報戦略として利用していたことは忘れてはならない。そのことは、占領統治下において書かれた「鉄の暴風」にも貫徹されている図式である。図式から事実を主張することが、「真実」を如何に見失うかということは、被告らの主張に共通するものである。
    また、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに記載された英文が真実「作戦報告書」ならば、それは軍人により書かれたということであり、当然軍隊の性質、軍隊の命令形式等を踏まえた形で書かれていることになる。その英文を米国軍人により書かれたものという視点からみれば、後述するように、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事は、むしろ、「軍命令」はなかったということを浮き彫りにするものと言うべきである。

3 A「慶留間島」と「座間味島」
   乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記載、特にその英文の記載は、そもそも、「慶留間島」(げるまとう)のもので、本件とは何ら関係がない。被告らの主張は、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事においては、記載の上からも一応区別されているものを、一緒くたにしている。「慶良間」(けらま)列島(これは、座間味島、渡嘉敷島、慶留間島が含まれる)の中にある「座間味島」、「渡嘉敷島」とは異なる「慶留間島」を混同させるような被告らの主張は、極めて不誠実なものであり、姑息であるといえよう。
   正確にいえば、座間味村は、座間味島、慶留間島、阿嘉島を含むものであるが、本件で問題となっているのは座間味村「座間味島」と渡嘉敷村「渡嘉敷島」での集団自決なのである。乙3・11頁からも明らかなように「慶良間島」には大下戦隊長が、「阿嘉島」には野田戦隊長が、特攻戦隊長として赴任し、特攻断念後、守備隊長となっていたのであった(尚、慶良間島でも、阿嘉島でも集団自決は確認されていない。)。

4 B「命令」について
⑴ 英文和訳の不正確性について
 さて、上記問題点をひとまず置くと、大切なことは、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事に断片的に掲載されている英文のみから、どのようなことが読み取ることが出来るかである。英文を仔細に検討すると、それが「軍命令」を立証するという被告らの主張は、いよいよ怪しくなるばかりである。むしろ、この英文を正確に読めば、慶良間島においても「軍命令」がなかったことを示す証拠と言うべきものとなる。
乙35の1、乙35の2に掲載されている翻訳文は、林教授の訳であるが、極めて恣意的な翻訳となっており、軍命令が存在するとの自己の見解を投影し、英文本来の意味をねじ曲げたものとなっている。
   対象の英文原文は、次のようなものである。
 
「Japanese PW’s  consisted of approximately 100 civilians, Two inclosures were established, one for males and one for women and children. Civilians, when interrogated, repeated that Japanese soldiers , on 21 March, had told the civilian population of Germa to hide in the hills and commit suicide when the Americans landed. Interrogation also revealed that Japs had been in much greater strength on the island but had been evacuated to Okinawa in early March.」

この英文につき、林教授は、第1文、第2文のみを取り出し、次のように訳している。

「約百人の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、三月二十一日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」(乙35の2)

そして、林教授は、この自らの翻訳文を基に、「軍命令」の存在を主張しているのである。しかし、林教授による翻訳文は、英文和訳としても大いに不正確なものであった。

⑵ 「tell 人 to 〜」 の訳の誤りについて
まず、文法と語彙の問題である。最も肝心な「命じた」と訳している部分である。
「tell 人 to 〜」は、「say to 人」若しくは「Do 〜」
と言い換えるのが普通であり、乙35の1の見出しのように「軍命」と訳すには、全く不適切な言葉である。
「tell」の訳について、今日最も一般に使用されていると考えられるジーニアス英和辞典をみると、「tell」の「基本義」は、
「情報を言葉で相手に伝える」
であり(甲C8・1957頁)、そこから、「話す;伝える」「知る」という大きな意味が派生し、更に「話す」から「口外する」「言いつける」「・・・しなさいと言う」という意味が派生することになるのである(甲C8・1957頁)。命令の意味合いは、その延長上に派生するものであり、地位の上下を要しない「ask」(頼む) や「require」(要求する) より、強い意味合いがあるとされていることに留意すべきである。
    他方、「命令する」という単語を、これも今日一般に使用されていると考えられるジーニアス和英辞典でみると、
       「order」、「command」、「direct」、「instruct」
   という単語が示されているが(甲C9・1774頁)、「tell」は記載されていない。上位の者が下位の者に言いつけることをいう「命令する」という日本語からは、「tell 人 to 〜」は示唆されないのである。
甲C9・1774頁の「direct」の記載において、
      「order、commandより弱く、instructより強い」(甲C8・550頁「direct」にも「command 、orderほど強い命令ではないが、instructより強い」と同様の説明がされている。)
   と命令の強弱についても説明がされている。これも言葉の「原義」「基本義」をもってすれば、自ずと分かることである。
    「order」の「基本義」は、「順序正しさから生まれた規律」であり、ここから、「規律・秩序」が派生し、更に「命令」(決まりに従うような指示を出すこと)という意味が派生する(甲C8・1375頁)。
    「command」の「原義」は、「まったく(com)任せる(mand)→指揮権をゆだねる」である。ここから、「〈権力者が〉〈事を〉命ずる」「〈人に〉・・・するよう命令する(order)」という意味になるのである(甲C8・392頁)。「order」と「command」との関係は、「order」がより一般的な用語であり、「原義」「基本義」からすれば、どちらかというと「command」の方が強い意味を有することになろう(甲C10)。
「direct」の「基本義」は、「ある場所・方向へ直接導く」であり、ここから、「向ける」→「道を教える」、「指導する・監督する」、「指図する」という意味が派生するが(甲C8・550頁)、上記和英辞典で「命令する」という意味を有するとされながらも、英和辞典では、項目としては、「命令する」という意味は挙がっておらず、「指図する」という訳の項目の中の例文で「The policeman directed that the crowd proceeded slowly」を「警官は群衆にゆっくり進むように命令した」と訳しているものがあるだけである(つまり、この「命令」は「指図する」と言い換えることが出来ることを辞書自体が示しているのである。)(甲C8・550頁)。
    念のため「instruct」の「原義」は、「上に(in)積む(struct)→積み上げる→築く→教える」と派生し、意味の項目としては、「指示する」「(細かく)指図する」の項目の中にこれらを強調する黒文字にして、強調されない白文字で「命令する」が入っているのである(つまり、この「命令する」は、「指示する」「指図する」と言い換えることができるものである。)(甲C8・1028頁)。
    以上からすると、上記和英辞典で「命令する」の意味を有する語を強弱で並べると、
          command >order>direct>instruct

ということになる。「tell」の「基本義」は、上記に述べたように、
   
        「情報を言葉で相手に伝える」

であるが、これは、上記「direct」の「基本義」である「ある場所・方向へ直接導く」より、更に働き掛ける力は弱い。「原義」からすれば、「instruct」の「教える」に近い。和英辞典において「命令する」という意味で、「tell」「require」「ask」を掲載していない意味は、このことをもってしても分かるはずである。「命令する」を英訳する場合に、多義的でしかも、本来の「基本義」からすれば、「direct」より弱い意味しか有していない「tell」を使用するのは不適切ということになるのである。
    つまり、「tell」(「tell 人 to 〜」)は、「命令」の広い意味を持ち一般的な語でもある「order」や、上下関係に立ち、権力(権限)のあるものが公式(正式)に命令を下し、服従を予定することが前提となる言葉である「command」(本来の軍命令といえば、これである。)や「order」よりは「命令」の意味は弱く、監督や指示を与える(しかし服従を予期している)語である「direct」という直接「命令」という意味が導かれる語よりは極めて弱く、上下関係にない者同士の強い要求や依頼(「require」「ask」)のニュアンスを有するのである(この点について纏めた辞書としては、甲C10の説明が詳しい)。本件の英文は、軍人によるものであり、この用語の使い分けについても当然理解した上で「tell」を用いているものと考えられる。軍隊の文書というものは、その性質上極めて用語の使い分けには厳しいものだからである。軍人が、民間人に対する「軍命令」(command)は存在しないことが前提で(民間人は、軍の部下ではない。)、より弱い意味で多義的な「tell」を敢えて使用している――「order」でも「direct」でも「instruct」でもなく―― 英文について、「命令」と前後の意味も考えずに訳すのは明らかに間違いというべきものである。
即ち、敢えて「tell 人 to 〜」の用法を使用している原文は、軍による自決命令の存在を否定することを示すものというべきなのである。

本件における「tell 人 to 〜」は、せいぜい「direct」より更に弱い意味を持つ「instruct」(教える、指図する、指示する)のニュアンスを持つ「しなさいと言った」と訳すのが、その文脈からも英文本来のニュアンスからも正しい翻訳であり、「tell 人 to 〜」を、その前後の意味、語自体のニュアンスの違いも考えずに「命令」と訳し、そこから「軍命令」の存在を読み込むことは明らかに誤りである。

⑶ 「Japanese soldiers」なる主語について
林教授も、この英文の主語が、複数形であることを認めている(乙35の2)。
そのことは、翻訳文で命令とされたものが、特定の命令者による「命令」ではく、複数の「soldiers」によるものであることを示唆している。つまり、ここから直ちに軍による「命令」を読み取ることは出来ない。
「soldiers」という言葉は、それを軍人が使用したとなれば、特別な意味を持つ。「soldier」は、兵士一般を指す一般的な用語であり、士官(将校ともいう)「下士官」も含むものである。この言葉自体が誰と特定して言っている語ではないのである。本件「原告梅澤少佐」なり「赤松大尉」のような特定の将校が「命令」を出したというのであれば、例えば、将校である高級士官の意味を含む「officer」を用いているはずであるが、これらの言葉は使用されていない。翻って考えれば、この英文は、部隊の功績を示す「作戦報告書」である。仮に非道な命令を日本軍の「officer」がしていると確認出来れば、積極的に「officer」と記載しているはずであるが、そう記載されてはいないのである。
この「Japanese soldiers」という主語は、特定もされない一般的な「日本の兵隊達」と訳すのが普通であり、組織的な命令の存在が想定されていたとは到底思えないのである。

⑷ 「山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じた」について
林教授による上記翻訳文は、原文自体から考えれば無理があり、そこに軍命令を読み込みたいが余りの恣意的な訳であると言わざるをえない。
まず、「when the Americans landed」は、「to hide in the hills and commit suicide」の「to hide in the hills 」(山に隠れろ)まで係るものと解するのが自然である( 「commit suicide」の前に「to」がないのは、これを一連の状況として理解すべきものであることを示唆している)。ところが、林教授の訳文は、「commit suicide」に「to」が省略されていることを敢えて看過し、「to hide in the hill」と「commit suicide」を分断している。「when 〜」が両方に係るとして翻訳すれば、「アメリカ軍が上陸したときは」、「山に隠れ、そして自決しなさい」「と言った(tell)」ということになる。「山に隠れろと命令した」と訳するのは明らかにおかしい。この英文は、「to hide」と「(to)commit suicide」とが共通して「tell 人 to 〜」の構文を採っており、「tell 人 to 〜」も両者の動詞として共通する意味を持たさなければならないのであるが、林教授は、「tell 人 to 〜」に「命令」の意味を持たせたいためだけに、敢えてこの訳文では、「to hide」(隠れろ)を分断させているのである。
仮に、軍による「自決命令」が出ているのであれば、住民に「隠れなさい」と言うことはおかしい。兵士達が、住民に対し、強制的な自決「命令」の遂行を妨げるかのように「山に隠れなさい」と言っていること自体、「軍命令」を否定する証拠というべきである。何故「隠れなさい」と言ったかは、後述するが、占領軍の地元住民に対する非道が、国際法の存在に拘らずよく見られることから、まず自分の命・名誉を守るためにこの対処をアドバイスしたのである。
つまり、訳文としては、「Japanese soldiers」(日本の兵隊達は)は、「アメリカ軍が上陸したときは、山に隠れなさい、(そしていざとなったら)自決しなさいと言っていた。」と訳すのがニュアンス的にも正当である。

⑸ 被告ら主張の前提の誤りについて
被告らの主張、そして乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスには、わざとかは知らないが、あたかも占領軍であるアメリカの「善」を当然の前提にしている点が見受けられる。
林教授の意見にも、次のような箇所がある。
「日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女は強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった」(乙35の2)
「米軍に保護された島民たちからは、家族を殺したことを悔い、山に隠れている人たちに本当のことを話して死なずに家に戻るように話したいとはっきりと言う人たちが何人も出てきたということも書かれている。捕虜になることを恥辱と信じ、お国のために殉じようとしていたならば、こういう意識にならなかっただろう。」(乙35の2)
上記林教授の意見には、「日本は、『アメリカ軍は(事実はそうでないのに)殺人者』と嘘の宣伝をしており、実際にも米軍は島民を保護することは当然であった」旨の、正にアメリカの「宣伝」を前提としている点で失当であり、この点を当然の前提とすると、上記日本兵達が島民に何故「山に隠れなさい」と言ったのか、何故「自決しなさい」と言ったのかが見えて来ない。
忘れてはならないのは、占領軍が現地の民間人に対して非道な仕打ちをしていたことは、第二次世界大戦前当時、そしてその後のアメリカ軍、ソ連軍、国民党軍、中国共産党軍、ベトナム戦争の際の韓国軍、人民解放軍のチベット・東トルキスタン侵略の例を持ち出すまでもない。当時のアメリカ軍、イギリス軍の非道についても、歴史的にも否定しがたい事実であることである(この一例が、甲B21の『リンドバーグ日記』に記載された数々の事例である。)。アメリカ軍が上陸する前に、このことを知る軍人一般が、住民に対して(まず)「山に隠れなさい」そして、いざとなったら「自決しなさい」と言ったことは、当時の状況に照らして、非道なものとして非難すべきものではない。アメリカ軍が上陸する前に、その非道を語り、その対処を言うことは、当時の認識としては決して間違ってはいないのである。
アメリカ軍の日本の捕虜、投降者に対する非道は、「リンドバーグ日記」(甲B21)にも記載されている。若干引用しておく。
「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取扱い、それらの行為が大方から大目に見られていたのである。」(甲B21・532頁)。
「われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方で自らの残虐行為を包み隠し、ただ単なる報復措置として大目にみようとする」(甲B21・533頁)。
著者リンドバーグは、こうも言っている。
「とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、最後の一兵まで戦い抜くだろう」(甲B21・548頁)。
この言葉は、何故に日本軍が投降を躊躇し、住民に積極的に投降を勧めなかったか、何故に日本軍が客観的には(若しくは後から振り返ってみて)勝ち目のない戦いを続けたのかを考える上で留意すべき視点を提供している。勿論、この裁判は歴史認識を問う場ではない。しかし、「山に隠れて、自殺せよ」という事前の日本兵達のアドバイスが、「日本軍の嘘の宣伝」を基にしたものであるとする被告らの主張に見られる前提は、必ずしも事実に合致しないものであり、俄に承服し難いものであることを指摘しておく。

⑹ 「Jap」という語について
林教授の翻訳文にない英文の第三文には「Jap」という語が登場する。これが、日本人を侮蔑的軽蔑的差別的に表現する語であることは周知のことである。公文書においても、この表現を使用する当時のアメリカの本質が見受けられるものである。公民権運動が戦後の1950年代後半から始められたこと、当時アメリカ人であったはずの日系人が強制的に収容されたこと等の例をとるまでもなく、当時のアメリカは、極めて人種差別的な側面が強い国家であることを忘れてはならない。
リンドバーグがその日記(甲B21)に記しているように、アメリカ軍には、日本人を「動物以下」のものとする偏見が満ちていたのである。
この面からも、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに紹介されている「慶良間列島作戦報告書」の内容は、割り引いてみる必要がある。

⑺ 沖縄タイムス掲載英文の正確な訳について
    以上を踏まえて、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに記載された下記の英文を正確に訳せば、次のとおりとなる。
 
「Japanese PW’s consisted of approximately 100 civilians, Two inclosures were established, one for males and one for women and children. Civilians, when interrogated, repeated that Japanese soldiers , on 21 March, had told the civilian population of Germa to hide in the hills and commit suicide when the Americans landed. Interrogation also revealed that Japs had been in much greater strength on the island but had been evacuated to Okinawa in early March.」
 
訳:「日本人の収容所には、おおよそ100人の民間人が含まれていた。二つの収容所が設置され、一つは男性用と女性・子供用である。尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間(げるま)の島民に対して、アメリカ軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。
尋問では、ジャップは、慶留間島ではるかに(恐らく3月始めより前にはとの比較)大きな軍隊を保持していたが、3月始めには沖縄本島に撤退したとも伝えている。」

訳文としては、「to hide」の動詞を訳出する必要がある以上、「tell 人 to〜」を「命令」と訳するわけにはいかない。そして、「tell 人 to 〜」は、そもそも、「軍命令」の意味は有しない。 「tell 人 to 」の訳は、せいぜい「direct」より更に弱い意味を持つ「instruct」(教える、指示する、指図する)の意味しか有さない「人に〜しなさいと言う」の意味である。
「山に隠れなさい」ということは、前述した通り「隠れる」ことで命・名誉を守りなさいという言葉であり、これは「自決命令」の遂行を妨げる言葉である。仮に軍からの「自決命令」が出ているのであれば、兵隊達が「山に隠れなさい」というわけがない。つまり、原文は、「自決命令」が存在しないことを示す証拠である。「commit suicide」の記載を含む第二文は、日本兵が、住民に対して自決を「しなさいと言った」という行為を批判するため、敢えて掲載したものではないかと推測されるのである。

(8)「commit suicide」の記載について  
  先程も述べたが、この英文は「作戦報告書」である。アメリカ軍の部隊の功績を記載する必要がある。第三文では、3月始めに日本軍が沖縄本島に撤退していたということも記されている。それにも拘らず、当該アメリカ軍部隊としては、日本軍撤退後の慶留間島における部隊の功績を書く必要があるのである。それが、第二文である。
「commit suicide」に関する住民の証言が「作戦報告書」に記載された理由は、キリスト教の宗教的側面を排除して考えることは出来ないと思われる。
「commit」(犯す)とあるように、自殺はキリスト教では大罪である。課せられた神の試練を自ら放棄する強く責められる行為である。恐らく、報告書に記載があるのは、キリスト教的観念を前提に、
自殺という神を恐れぬ行為を、民間人に軍人が勧めた
というニュアンスが含まれ、これを敢えて記載することで、敵国日本の悪性をアピール出来るものということであろう。キリスト教的観念からは、そもそも、「山に隠れろ」まではいいとしても、「自殺しろ」と他人に言うことは、異常な奇異感を覚えるということになる(奇異感を覚えないとすれば、日本人だからである。)。
自殺、特に切腹行為を理解し難い西洋人に容易に理解出来るように努めた名著がある。言うまでもなく、新渡戸稲造の「武士道」である。新渡戸稲造は、「武士道」において、
「私は自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張するものと解せられたくない。しかしながら名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を絶つに十分なる理由を供した。」
と記載している。ここで、新渡戸は、自殺を是認する主張としては受け入れないで欲しい旨記載しているが、日本以外、特にキリスト教圏での自殺観について埋め難い考えの違いを吐露しているのである。
被告らは、軍が出した戦時訓などを引用し、「自殺は強制されなければされない」旨の主張をしているが、そうではないのである。民衆は愚純ではない。根底にあるのは、日本における自殺観とキリスト教圏における自殺観との埋め難い考えの違いである(集団自決を生き残った村民たちの証言を読んでいて感じるのは、誰かに命じられたというより、むしろ皆で一緒に死にたいという心情であり、神への反逆ではなく、世間に背を向けて心中する家族の心理状態に近いものである。)。
恐らく、「部隊報告書」に第二文が記載された意味は、次の理由からである。
慶留間島にはジャップの大きな戦力はなかったが(3月始めに撤退していると書いている。)、(撤退後の)3月21日にも、民間人に軍人が、(キリスト教的正義に反する)「自殺」を指図している(このような慶留間島で、部隊は戦ったのである)。 
この第二文は、キリスト教的正義感を持つアメリカ人に、神をも恐れない日本軍の悪性をアピールするものである。

⑼ 結論
以上から明らかなように、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事は、本件における「軍命令」の存在を立証するものでは到底ない。むしろ、その英文は「軍命令」を否定するものとさえ読めるものである。林教授の和訳については、本件で対象となっていない「慶留間島」(それは「座間味島」でも「渡嘉敷島」でもない。しかも、そこでは、集団自決は報告されていない。)における日本兵達による占領軍の非道という前提事実を踏まえてされた島民に対するアドバイスについて、構文的にも恣意的に解釈されたもので、本件においては何ら意味がないものである。
渡嘉敷島と座間味島で発生した集団自決における「軍命令」の有無が問題となっている本件において、これを証明するものとして、そもそも集団自決が発生してもいない慶良間島において兵隊達が島民に語った言葉(それを命令と翻訳するには大いに疑問がある)を記載した英文を「軍命令」の証拠として提出していること自体、被告らが主張している「軍命令」の根拠が極めて乏しいこと露呈するものであると言わざるを得ない。
  
5 座間味村「座間味島」の記載について
既に述べたことであるが、本件の対象となる座間味村「座間味島」に関する部分については、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事には、そもそもの英文自体が記載されておらず、林教授の意見を交えた和訳と、事実と意見自体を区別しない論説によっているのであり、そもそも真偽を論じるに適切ではない。
しかし、この沖縄タイムスの記事をよく読むと、林教授自身、座間味村「座間味島」について、「軍命令」はなかったことを自認する意見を記載している。つまり、林教授は、座間味の報告書について、
「明らかに民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」
  という訳文を記載し、それを基に、
「『集団自決』がおきた直後の時点において、慶留間島では複数の日本兵から米軍上陸時には自決せよと命じられていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが、保護された島民たちの証言で示されている。」(乙35の2)
との意見を述べている。
    林教授によれば、「慶留間島」は「命令」で、「座間味」は「指導」であったということになる。恐らく「座間味」の原文は、「tell 人 to 〜」よりもニュアンスが更に弱い特定の言葉を使っているのであろう。
    そして、林教授は更にいう。
    「日本軍を中心とする戦時体制が島民の生命を犠牲にしたことがよくわかる。部隊長の特定の命令があったかなかったという命題だけに『集団自決』の議論を限定し、日本軍の名誉回復をはかろうとする企てが、いかに視野の狭い、木を見て森を見ない愚論であるか、米軍資料を読みながら改めて感じた。」(乙35の2)
被告らは、既に、この資料においても論点を恣意的に移そうとしている。 被告らは、「沖縄ノート」が引用した沖縄戦史、「太平洋戦争」が記載する「部隊長の特定の命令」(軍命令)を出したとする非道な元隊長の行為について、非難し続けて来たはずである。
被告らは、当時の戦時体制について非難する前に、事実は事実と認め、誤りは誤りと認め、謝罪し、記載を書き直すことで、非情な軍命令を下したと非難された元隊長の名誉を回復することが先決であろう。言うまでもないが、裁判は、歴史観を議論する場ではない。この裁判では、被告らの著作が「『原告梅澤少佐』、『赤松大尉』が非道な軍命令を出した」と非難したことが、果たして事実に基づくものかどうかが問われているのである。当時の戦時体制や日本軍の沖縄戦についての考察や非難は、別のところでなされる問題である。

第3 援護法における救済拡大の経緯に関する被告らの主張の問題点
 1 被告らの主張
被告らは、その準備書面(7)の第1の2において、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙36)、「沖縄作戦講話録」(乙37)及び「戦斗参加者調査資料」(乙39の1〜5)に記載されている内容を根拠に、「日本政府は当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた。戦闘協力者(戦闘参加者)に該当しないとしていた扱いを陳情により変更したわけではない」などと主張している。
   しかしながら、以下に述べるところから明らかなように、上記主張は一連の事実経過を総合的に踏まえたものではなく、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それに基づく粗雑な推論によって事実を歪曲するものである。
 
2 援護法適用の拡大の経緯
まず、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)が沖縄に適用されるに至った一連の事実経過を纏めると、次の通りである。

    S27(1952).4  援護法公布。
              ※ 援護法の目的は、「軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」にあった。軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
    
  〃   8  政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置(甲B51の1枚目・平成18年11月23日付琉球新報3 段目)。
              ※ 政府としても将来的には援護法の沖縄への適用は当然と考えていたので、主として援護業務推進のために、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した(甲B51の1枚目・3段目)。
     
S28(1953).3  北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。
             日本政府の機関委任事務として、琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置される(甲B51の1枚目・4段目)。
             宮村幸延が座間味村の「援護係」に着任する(甲B1・陳述書8頁「ア」、甲B26・本田靖春著「第一戦隊長の証言」298頁最下段)。
             「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して、各市町村に遺族会が相次いで結成されて行く(甲B51の1枚目・4段目)。

       〃  .9  「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められる(甲B51の1枚目・5段目)。

    S30(1955).3  総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する(乙37・4-3頁)。

    S31(1956).3  中等学校生徒について、男子生徒は全員軍人、女子戦没学徒は軍属として死亡処理され、援護法の適用を受けるようになる(甲B51の2枚目・平成18年11月30日付琉球新報3段目)。
             当時は、「軍民一体の戦闘」という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれたというのが、遺族会の沖縄戦認識だった。しかし、その犠牲をどのように援護法に適用させるかという難題に直面していた(甲B51の2枚目・4段目)。

     〃   〃   厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れる。遺族会の事務局長自ら沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味・渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させる(甲B51の2枚目・5段目。乙16・933頁)。尚、その際に、座間味村では宮城初枝に対する事情聴取が行われ、《梅澤命令説》が公認されることとなったものである。
また、この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった。同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討し、その結果、《赤松命令説》を作り出したものである(甲B35))。
             以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになる(甲B51の2枚目・5段目)。

    S32(1957).7  厚生省が一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、住民の沖縄体験を20種に類型した「戦闘参加者概況表」にまとめる。
その結果、軍の命令による「集団自決」に該当すれば一般住民も兵士同様に「戦闘参加者」として認定され、「準軍属」扱いされることになる。
但し、軍の命令を受けて「自分の意志」で戦闘に参加・協力したか否かが問われることになったので、軍の命令を聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられる(以上、甲B51の2枚目・5〜6段目)。

    S38(1963).10  6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる(甲B51の3枚目・6〜7段目)。

3 宮村幸延の奔走
以上の経過を纏めると、政府は援護法が公布された昭和27年の段階から沖縄に同法を適用することを考えており、それは喫緊の課題であった。現に翌昭和28年3月には琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置された。
そのような流れの中で、同月、宮村幸延が座間味村の「援護係」に早々に着任した。当時は「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して各市町村に遺族会が相次いで結成されて行ったり、その「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められたりするなど、遺族会の活動も極めて活発化し、住民の意識においても援護法適用は喫緊の問題であった。本田靖春著『第一戦隊長の証言』にも「戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、村役場はこれに基づく業務に早急に取り組む必要に迫られていた」と、その切迫した状況が記されている(甲B26・298頁最下段)。そのため、昭和28年3月に援護係に着任した宮村幸延も、当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走していたのであり、着任早々の時点から3回程上京し、厚生省沖縄班長や係員と折衝していたものである(甲B1・8頁「イ」)。この時期の幸延の複数回の上京については、「第一戦隊長の証言」にも述べられている。299頁最下段には「そう判断した幸延さんは、厚生省とじかに談判しようと上京を決意した」とあり、300頁2段目にも「ともあれ、ふたたび自費で上京した幸延さんは、厚生省に2回目の陳情をした」と記されている。
この折衝の過程で、14歳以下の者に対する援護法の適用が「法令なし」との理由で断られた。しかしながら、同時に係官より、「軍命令があったのならネー」と示唆する発言があった。そこで宮村幸延は帰村して審議を重ね、軍命令で処理する方針を決めたものである(甲B1・8頁「イ」及び「ウ」)。この方針は、当時の遺族会の沖縄認識、即ち、「『軍民一体の戦闘』という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれた」という認識にも合致していた。そのような認識の背景となっている事実がどのようなものか、そしてその事実が果たして真実に合致しているかどうかは全くの別問題として、とにかく援護法適用による補償が最大の課題であった。
その後、昭和31年3月、厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れ、遺族会の事務局長自らが沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味島、渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させた。その際、座間味島での集団自決の前夜に自決のための爆薬を原告梅澤の下に乞いに来た5人のうちの唯一の生存者である宮城初枝も事情聴取され、国の役員、役場の職員、島の長老らを前に、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」との内容の問いに対し、やむなく「はい」と答えたものである(甲B5・「母の遺したもの」250〜253頁。尚、252頁6〜7行目には、「厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末」となっているが、これは計算を1年誤ったものであり、正しくは前記の通り、甲B51の2枚目・5段目や、乙16・93頁などからすると、昭和31年3月である。宮城初枝の記憶違いか、著者である娘宮城晴美氏の聞き取り違いであると推測される。そのため、原告ら準備書面(5)19頁最終行は、1957(昭和31)年3月と訂正する。また、原告準備書面(5)20頁の5ないし8行目も誤りであるので、訂正する。正確な経緯は前記⑴の通りである。)。
上記の経過から推測すると、幸延が厚生省に陳情を始めた以降、昭和29年から30年頃には、座間味村においては、自決者遺族が援護法給付を受けるため、村幹部、島の長老ら(琉球政府の関係者も含まれていたかもしれない)が、風説に過ぎなかった《梅澤命令説》を、村として公的に打ち出すことが継続的に検討計画されていたものと思われる。
一方、渡嘉敷村では、前記の通り、琉球政府社会局援護課の照屋昇雄が、昭和31年頃までに、100名以上の住民から聞き取りをしたものの《赤松命令説》を証言した住民は一人もいなかった。しかし、同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討して、《赤松命令説》を作り出したものである。
そして、以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになった。

4 弥縫策として隊長命令説
以上の経過から明らかなように、《梅澤命令説》も《赤松命令説》も援護法適用のために作り出されたいわば弥縫策に過ぎない。しかるに、それをもって「日本政府が当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた」などと主張することは、一連の事実経過の全体から敢えて目を背け、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それのみに基づいて主張することにより事実を歪曲するという誤魔化しであり、正に本件各書籍が行っている事実の歪曲の手法以外の何物でもない。
   真相は、昭和31年3月の厚生省の半月にわたる実情調査で、《梅澤命令説》と《赤松命令説》という弥縫策が出来上がってしまったということである。その弥縫策を踏まえて前記乙36、乙37及び乙39の1ないし5が作られているに過ぎないものである(あるいは、当該実情調査以前にも、既に《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が座間味島及び渡嘉敷島内に流布していたと推測されるから、そのような島内の事情もまた乙36等の記載内容に影響しているものとも考えられる。即ち、座間味島では宮里盛秀助役ら村幹部からの《忠魂碑前集合玉砕命令》が原告梅澤の自決命令と誤解される状況が存在し、渡嘉敷島では集団自決の音頭をとった村長以下が生き残ったため、死者に対する申し訳なさや自らの責任回避等により《赤松命令説》を語るようになったと推測される。それら《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が島内で流布した背景については、平成18年11月10日付原告準備書面(5)4頁以下、及び24頁以下で述べた通りである。)。
    
5 原告梅澤の陳述書との食い違いについて
また、被告らは、宮村幸延の「功績調書」(乙40の2)に昭和32年(1957年)の上京の件しか記載されていないことを挙げて、原告梅澤の陳述書(甲B1)の内容と相違するものとしているが、それもまた前記⑴の事実経過を無視した主張である。そもそも当該「功績調書」に昭和32年の上京の件しか記載されていないのは、当該上京こそが特筆すべき結果をもたらした上京だったからに過ぎない。前述の通り、宮村幸延は昭和28年3月に援護係に着任した当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走し、上京していたものである。原告梅澤の陳述書には、その当初の上京のことも含めて記載されているのであって、前記「功績調書」の内容と矛盾するものではない。常識で考えても、そもそも援護法適用が喫緊の課題という状況にありながら、昭和28年の着任後昭和32年まで一度も上京しないということは到底考えられない。
また、たとえ原告梅澤の記憶や理解に若干の不正確さがあったとしても、それは長年月を経ることに伴う不可避的なものである。同人の記憶内容と理解の骨子は、客観的な事実経過から外れるものではない。
    
6 「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載について
 尚、乙36等の書類を個別に見ると、次のような問題も存在する。
⑴ 住民処理の状況」(乙36)の記載について
まず、「住民処理の状況」(乙36)について見ると、問題部分の記述は、「軍(・)によって作戦遂行を理由に自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)と(・)す(・)る(・)本事例」となっている。即ち、命令の主体が特定されず単に「軍」と記載されているだけでなく、自決命令の存在についても未だ推測に基づく表現に止まっている(43頁「c」の「⑴」)。自決命令の主体が原告梅澤らであるならば、少なくとも「軍」といったような抽象的な表現には止めない筈であるし、自決命令の存在がはっきりしているのであれば、「自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)本事例」と記載する筈である。
そして何よりも、乙36の上記問題部分の記述がどのような根拠(証言)に基づいているのかという点は全く不明であり、記述内容の正確性それ自体に多大なる疑問がある(この点については、後述の乙37及び乙39についても同様である)。現に乙36・2枚目「本資料の出処について」の「3」にも「比較的(・・・)信憑性があり」と記載され、信用性に一定の留保が付されている。
⑵ 「沖縄戦講和録」(乙37)の記載について
次に、「沖縄戦講和録」(乙37)について見ると、問題部分の記述は、「沖縄の場合慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております。」(下線部原告ら代理人)となっているだけで、原告梅澤及び赤松大尉若しくは軍による自決命令の存在が記載されているわけではない(4−31)。
そして、自決者の数についても、乙36・43頁の数(座間味村155名、渡嘉敷村103名)、甲B6「鉄の暴風」2枚目左頁8行目の数(座間味島52名)とも大きく異なっている。
    被告らが、《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠とする調査結果の自決者数が、かように各調査結果ないし文献により異なるのも不可思議である。両島とも狭い島であり、住民間のつながりも濃く、自決の実態や自決者数についての調査はさほど困難であったとは思われない。
     《梅澤命令》、《赤松命令》が実態のない幻のようなものであるがゆえに、集団自決以外の原因で亡くなった住民についてもこれに含まれて行ったため、軍命令による自決者数が増加していったことが強く疑われるのである。
⑶ 「戦斗参加者概況表」(乙39-5)の記載について
更に、「戦斗参加者概況表」(乙39-5)について見ると、自決命令の主体が単に「警備隊長」と記載されているだけで、果たして原告梅澤及び赤松大尉のことを指しているのか疑問も残る(4枚目「N」)。
    また、そこに記載されている「警備隊長」の命令の内容は、座間味島、渡嘉敷島に共通して、「住民は男女老若を問はず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し、愈々と云う時にはいさぎよく(以下、解読不能)」というものであるが(4枚目「N」)、この内容は、本件各書籍に記載されているものとも、被告らが主張している原告梅澤及び赤松大尉の命令内容とも大きく異なっている。即ち、そもそも被告らの主張する命令の内容は、原告梅澤については、@「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」(本件書籍一「太平洋戦争」300頁8行目以下)、及びA「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」(本件書籍三「沖縄ノート」69頁10行目以下)というものであり、赤松大尉については、上記A及びB「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している」(本件書籍二「沖縄問題二十年」4頁13行目以下)というものである。
これら@ないしBは、いずれも上記「戦斗参加者概況表」(乙39−5)に記載されている「警備隊長」の命令内容とは大きく異なっている。このことは即ち、援護法適用による沖縄復興のために政府も村役場も「軍命」があったか否かだけに拘ったため、その存在の仮構には腐心したが、「軍命」の細かな内容は全く重視されていなかったこと、そしてその時々の風聞等によってその都度その都度命令の内容が変容して行ったことを端的に物語るものである。
⑷ 小括
    以上述べたところより、「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載に基づいて梅澤隊長ないし赤松隊長による集団自決命令の存在を言う被告らの主張には、何ら理由がないと言うべきである。


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第4 《梅澤命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論

第4 《梅澤命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論 1 宮村幸延の『証言』について   宮村幸延の『証言』(甲8)については、被告らは、原告梅澤が同人を泥酔状態に陥れて書かせたか押印だけさせたかしたもので内容に真実性はない旨繰り返す(被告準備書面(7)6頁ないし9頁、13頁)。    確かに宮城晴美と座間味村公式見解はそのような事実認識をしているが(乙18、甲B5・269頁、乙21の2)、宮城晴美は、押印のみが宮村幸延のもので文章は原告梅澤のものと述べるのに対し、座間味村は文章も宮村幸延の自筆のものとしており、被告らが依拠する2つの調査結果も大きく食い違い混乱している。   原告梅澤が沖縄タイムス社新川らとの会談において、『証言』作成時点で宮村幸延が酔っていたことを認めていたとの被告らの指摘もあり、それは事実であるが、原告梅澤は同時に「強い酒じゃない。ビールだけだから。正気は失っていないが、十分書けもするし話もするし、普通の状態です」と、当時の宮村幸延の状態を語っており(乙43の2・6頁上から3、4行目)、「泥酔状態」などでは全くなかったことを明言している。    また、前記会談においては、宮村幸延に『証言』を公表しないでほしいと言われたことを原告梅澤も認めたとの被告らの指摘もあるが、原告梅澤が「絶対公表しないから書いてくれ」と懇請したというわけでは決してなく、公表については原告梅澤においても考えてみる、内地の人に知らせるくらいはしたいというのが自身の気持ちである旨原告梅澤は宮村幸延に述べたのであった(乙43の2・5頁下から5行目以下)。    そもそも、かような重大な事実について書面、それも『証言』と題するような書面を書いて渡せば、それが少なからぬ人の目に触れることもありうるということは、当然に想定されることであって、宮村幸延もそのようなことは認識済みで『証言』書面を作成交付したことは自明である。   被告らは、公表しないとの前提で宮村幸延は書いたのだから内容に信用性、真実性はない旨も述べるが、そのような論理も大いに疑問である。公表を予定するかしないかと、内容の信用性、真実性は直接関連しないのがむしろ通常である。素朴に考えて、原告梅澤が家族に見せるだけだとしても、真実でないこと、自身の兄を自決命令の主体であるというようなことを、敢えて宮村幸延が書くであろうか。    結局のところ、「泥酔状態にされて書かされた」というのは、宮村幸延と宮村文子夫婦が、神戸新聞昭和62年報道(甲B11)の後、村当局や一部の住民から激しい叱責を受けてやむなく作出した悲しい弁解であって、何の客観的根拠もないと断じざるを得ない。村当局や関係者の叱責については、甲B26号証『第一戦隊長の証言』においても、「記事が出てから幸延さんは、村当局に叱責された」と記され(307頁)、甲B第5号証『母の遺したもの』にも「島は騒然となり、M・Y氏は座間味島遺族連合会会長を更迭され、母は村当局や一部の住民から厳しい批判の目を向けられるのである」と語られている(270頁)。    被告らは、「梅澤命令説が真実で、盛秀命令説は虚偽なのだから」という結論を前提として、「宮里盛秀の弟の宮村幸延が『証言』書面のようなことを書くことはおよそありえない」との主旨を再三強調するが、前提部分がそもそも争いとなっているのであるから、このような主張は論理的に反論にすらなっていない。    むしろ、「およそありえない」程の内容が、敢えて宮村幸延により語られたのは、その内容が正に真実に他ならないからであると考えるのが合理的なのである。 2 沖縄タイムス社と原告梅澤の会談について    昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談において原告梅澤が「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑をかけということは歴史の汚点です」、「もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」などの発言をしたとの被告らの主張(被告準備書面(7)9、10頁)は原告梅澤らも認めるところであるが、被告が準備書面(3)6頁で「原告梅澤は、座間味村の前記公式見解を受け入れ、自決命令があったとされていることについて、座間味村や沖縄タイムス社に対し訂正等の要求を一切しないとしていた」と主張する点は、否認する。    録音反訳書(乙43)を通読すれば一目瞭然であるが、原告梅澤の「自分は自決命令など絶対に出していない」という主張は会談中一貫しており(そして、現在まで全く揺らぎがない)、座間味村公式見解を受け入れる主旨の発言など欠片もしていないことは明らかである。    懸命に真実と真情を訴え、理をもって迫っても、「座間味村がこう言っているから」という理由で訂正に応じられないとの手応えのない返答を延々と(録音提出されている部分だけで2時間以上)繰り返す沖縄タイムス社側の姿勢に、やむなく原告梅澤は、諦めて矛を収める主旨の前記発言をしたものであるが、それも、座間味村に真実を公式に認めさせると村民の受けている援護法給付に支障が生じることとなり、それは本意ではないとの意味を述べたのであった(尚、「歴史の汚点」との部分も、自決命令とは全く関係のない文脈での発言である。)。    この会談の際は沖縄タイムス社側も、社として原告梅澤の言い分を受け入れはしなかったが、下記のような発言をして、原告梅澤の「自分は自決命令は出していない」との言い分に対し、十分に再調査、再検討の余地を認める姿勢や、個人的に共感と理解を示す態度を示して、原告梅澤を懐柔したという面もあった(乙43の2)。 新川 「だからその時点で、梅沢隊長なり、あるいは軍なりが命令したのか、しなかったのか、その問題も一つあります」(24頁下から8行目以下) 新川 「ただ一介の助役の誘導等でそういうことになるのか、ならないのか含めまして、徹底してこれはやらないといかんと思います」(25頁8行目以下) 徳吉 「それは軍命令という場合に、梅沢さんの部隊のことだけじゃなくて、軍という組織化された一国の国の軍隊だと僕らは見るわけです」(27頁10行目以下) 徳吉 (忠魂碑前集合命令について)「あの時点で助役といっても、助役ではなくて、あるいは梅沢さんの部隊長ではなくて、その背景には住民も軍人もその背景にあるのは、一国の軍国主義の・・・を受けてみな生活し、・・・としているわけですよ」(27頁21行目以下) 新川 「個人的には、先ほど申し上げましたように、梅沢さんのお立場、お気持ち、よく分かるんですが」(29頁11行目以下)    また沖縄タイムス社は、座間味村公式見解を盾に取り、「座間味村がこう言っている以上は、出来ない」との論法で、社としての訂正謝罪を拒否したのであり、そのような姿勢の沖縄タイムス社を責めることは、座間味村にも迷惑を掛けることになると原告梅澤は考えて、「もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」と述べ、沖縄タイムス社への追及を収める表現をしたのであった。     即ち、座間味村の「本当のことは言えないんだよ、分かってくれよ」というような暗黙のメッセージが背後にある政治的立場を慮って(沖縄タイムス社がそうし向けたのであるが)、原告梅澤もその場において、大局に立った政治的判断をした上で、矛を収める物言いをしたということであった。 3 『母の遺したもの』と宮城初枝からの手紙について   被告らは、宮城初枝が原告梅澤に詫びたことが事実であるとしても、それは昭和20年3月25日の夜に助役らと原告梅澤に面会した際に原告梅澤から自決命令を受けていなかったということに過ぎず、だからといって座間味島において日本軍(梅澤隊長)の自決命令がなかったことになるものではないとの主張を続ける(被告準備書面(7)10頁。同16頁にもほぼ同旨の主張がある)。    では、いつ、どこで、どのような形で原告梅澤が住民に自決命令を下したというのか。この疑問に被告らは何も答えることが出来ない。    他の日本兵に関する全く異なる場面のエピソードを引いたり、「皇民化教育」、「軍官民共生共死の一体化の方針」、「軍の強制や関与」等々の言葉をマジックワードのように用いて問題点をずらし、無理矢理に《梅澤命令説》を正当化しようとしているのみである。    また、被告らは、昭和20年3月25日の夜に宮里盛秀助役や宮城初枝らが原告梅澤に面会した際に、原告梅澤が「自決してはならん」との言葉を述べたかどうかという些末な点に拘泥して、原告梅澤の陳述の信用性を云々するが(被告準備書面(7)10頁下から3行目以下、同20頁下から9行目以下)、その不当性は、原告第5準備書面14頁で指摘したところである。    この場面についての説明は、原告梅澤は昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談においても行っており(乙43の2・10頁9行目以下)、その迫真性は着目されるべきである。 「部隊から、私のところに来て、敵が上陸する前夜に『私たちはいよいよ死ぬ。死に方が分からない、どうして死んでいいか分からんから工事中の爆薬を爆破させてください。忠霊塔の前で。われわれはそのぐるりに集まるから一挙殺してくださいと、助けてくれ』とこう言ってきた。私は手榴弾もノー、小榴弾もノー、全部はねつけたんです。私はね、『何で死ぬ必要があるんだと、馬鹿なことを言うな』と。追い返そうと思ったがね、さらに私は30分くらい本当に困ったよ。これはね、あのね、島の人は純真だねー。いったん覚悟したらね、もう死ぬ気でおるんだよ。私がそう言ったら、あっ部隊長がそう言ったから、もう死ぬのはやめようと、そういう人たちじゃないんだなあ。もう結局、村の当局の誘導でもって死ぬことを覚悟している。それでその時にもうすでに助役のあれでもって伝令が飛んで、忠霊塔の前に集まれ集まれとゆうて、どんどん集まり始めておると。だから今爆薬をくれと。それはですね、また戦闘が始まって、艦砲射撃も撃ち始めたから、結局早く散らさんと危ないといったら、やっと散っていったから私はホッとした。これで私は、もう助かると思ったら、死んじゃったんだな。」      この場面では、30分程にもわたり問答がなされていたことが上記の原告梅澤の発言からも明らかになっている。このような会談の内容の再現について、関係者の説明の微妙な食い違いを取り上げて云々する被告らの姿勢は、無意味な揚げ足取り以外の何ものでもない。 4 中井記者の陳述書と神戸新聞報道について ⑴ 中井記者の電話取材について    被告らは、神戸新聞報道(甲B9〜11)に関し、中井記者の取材方法が電話による聴き取りであった点を、新聞記者としての基本を踏み外したものであるとする(被告準備書面(7)11頁)。     しかし、上記報道のための取材の殆どは、記者が何か現場や物を実際に観察してどうこうというものではなく(但し、宮村幸延作成の『証言』書面については、中井記者は原告梅澤から見せてもらっている。甲B34・4頁、乙43の2・6頁)、関係者からの聴き取りだったのであり、それが面談により行われたか電話により行われたかで本質的な違いはない。聞いた相手と、得たコメントに間違いがなければ、電話取材でも何ら問題はないはずであり、実際中井記者は、誤って別人に話を聞いたとか、得ていないコメントを記事にしたなどということは全くなかった(これだけの内容を、勝手に捏造して新聞に掲載することがありえようか。実際、その記事内容については、沖縄タイムス社を含め、どこからも抗議はなかったのである。)。     原告らとしては、逆に被告らに問いたい。被告らは、「太平洋戦争」の出版時あるいは「沖縄ノート」の執筆時に、さらには、《梅澤命令説》と《赤松命令説》の信憑性が諸研究の発表や出版物の公刊、報道等により大きく揺らいで現在に至るまでの間に、独自に、原告梅澤や故赤松大尉、宮城初枝その他集団自決の関係者らに対し、電話取材の一つでもよい、直接に接触して何らかの取材や事実確認を行ったのであろうか。     原告らの知るところでは、それらがなされた形跡は皆無である。そこに表れている被告らの姿勢こそが、文筆家あるいは出版社としての「基本を踏み外した」ものなのではなかろうか。 ⑵ 中井記者が原告梅澤の友人であるとの指摘に対して    昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談において原告梅澤が、中井記者のことを「友達」と表現し、宮村幸延の『証言』を見せたらそれを記事(昭和62年記事)にした旨述べたことは事実である。     しかし、友人だから中立公正な立場で記事を書いたものではないというような 被告らの指摘(被告準備書面(7)11頁)は全く失当である。     旧来から中井記者と原告梅澤が友人関係にあって、それがために昭和60年、61年及び62年の神戸新聞記事が発表されたのではない。両人はこれら記事の発表前の取材で知り合い、昭和60年記事、昭和61年記事の発表の際に中井記者が原告梅澤の言い分を丹念に聞き、理解をしてくれたために、原告梅澤としては中井記者のことを信頼出来る知人と認識していた。そんな中、昭和62年に宮村幸延『証言』を入手した原告梅澤は中井記者にそれを見せたのであるが、そのことを、翌昭和63年の新川らとの会談において「友達の記者に見せた」と表現しただけのことであった。    上記の経緯からすると、実際は中井記者と原告梅澤は、友人関係というよりも、重要な記事発表の際の、取材者と取材相手という関係にあったというのが正確である。また、中井記者は記事発表当時、神戸新聞においては一取材記者としての立場に過ぎず、原告梅澤が神戸新聞上層部との人的関係があったということもない。言うまでもなく、記事の掲載は、編集長の権限である。     原告梅澤とその程度の関係に過ぎないのに、神戸新聞あるいは中井記者が、《梅澤命令説》の真偽という重大問題について、わざわざ「捏造記事」を連発する理由は全く考えられない。     関係者らに大きな反響を呼んだ一連の神戸新聞記事に対し、それが捏造などとの主張がなされたのは、本件訴訟における被告らの主張が初めてのことである。沖縄タイムス社でさえ、未だ抗議をした事実はない。被告らの主張は荒唐無稽なものと言わざるを得ない。 ⑶ 住民の忠魂碑前集合と梅澤と助役らの会談の前後関係    被告らは、自決の日の梅澤と宮里盛秀助役らの会談の時点で、住民らが忠魂碑前集合をしていた事実はないので、神戸新聞昭和60年記事(甲B9)の宮城初枝名のコメントは、初枝の行ったものではないと主張する(被告準備書面(7)11、12頁)。    確かに、『母の遺したもの』(甲B5・39頁、215頁)や『第一戦隊長の証言』(甲B26・305頁)においては、会談後に助役が忠魂碑前集合の指示を出したように書かれている。     しかし、これは、この時点で住民が忠魂碑前に集合し始めていたことと矛盾することではない。むしろ、昭和20年3月23日から25日夕刻までの激しい米軍の艦砲射撃や空襲により、村は破壊され、多数の村民が死に、攻撃がさらに激烈さを増す中で、村民の間に恐怖による錯乱や「もはやこれまで。死ぬならば家族と一緒に」という心境などが広がり、自発的に、あるいは村幹部の事前の指導やその場での呼び掛けにより、前記会談時には、住民らの玉砕のための忠魂碑前集合が一部始まっていたという状況もあったのではないかと推測できる。     いずれにしても、神戸新聞昭和60年記事(甲B9)の宮城初枝名のコメントは、助役らとともに原告梅澤を訪ねた5人のうち自分だけが生き残りであること、助役が「自決用の武器をもらいにいく」旨述べたこと、原告梅澤が武器提供を断ったことなど、『母の遺したもの』(甲B5)や初枝自身の手記(甲B32)で述べられる初枝の体験と十分に符合しており(昭和60年は『母の遺したもの』も発表されておらず、初枝の手記を中井記者が入手したこともない)、初枝自身の話であることは明らかである。 ⑷ 大城将保が神戸新聞の取材を否認している点について     沖縄県史料編集所主任専門員大城将保のコメントが掲載された神戸新聞昭和61年記事については、大城は、自分は神戸新聞の記者から一切取材を受けておらず、当該記事は捏造記事であると述べる(被告準備書面(7)12頁。乙44、45)。    しかしながら、神戸新聞社あるいは中井記者が、そのように悪質な「捏造記事」をでっち上げる必要性がどこにあるのか。この61年記事は、神戸新聞だけでなく同内容のものが東京新聞にも掲載されて(甲B5・267頁)、大きな反響を呼んだにも拘らず、捏造の事実が、この裁判に至るまで全くどこからも誰からも抗議も指摘もなされなかったのは何故なのか。疑問は尽きない。     大城は、記事の掲載紙の送付を受けていないため、最近までかかる61年記事のことを知らなかった旨述べるが、到底信じることは出来ない。原告代理人が神戸新聞社中井記者(当時)に確認したところ、掲載紙の送付はしていなかったとのことであるが(県という地方自治体の認識の誤りとそれが訂正されるということを報告する記事の掲載紙を、わざわざ発表したマスコミがその県の側に送るなどということは、なされないのが普通であろう)、かかる重要な報道をされた事実が、コメントをした張本人であり、また沖縄県史に関する公的な立場の専門家である大城の耳に20年間も入らないなどということが、果たしてあり得るであろうか(後述するように、62年記事は座間味村で大問題になっていたことは、『第1戦隊長の証言』に詳しい)。     昭和63年沖縄タイムス社新川らと原告梅澤の会談でも、沖縄タイムス社が大城と話し合いをした旨新川が述べている(乙43の2・14頁)。そのことからしても、昭和60年代、沖縄タイムス社と大城が、《梅澤命令説》の訂正問題を巡って情報交換をしていないことはありえない。61年記事には、大城だけでなく沖縄タイム社牧志の「調査不足があった」とのコメントが掲載されたことからして、61年記事を受けて、大城と沖縄タイムス社の間でも当然に連絡を取り合う状況はあったものと推測される。     被告らは、大城が「初枝氏の話を聞いても隊長命令はなかったと認識したことはなかったので」という理由をもって、この昭和61年神戸新聞記事は信用出来ないとの反論もしているが、原告側はその理由部分をそもそも争っているのであり、被告のこの主張は論理的反駁になっていない。「あり得ないから、信用出来ない」というだけの、内容空疎な弁明である。 ⑸ 神戸新聞昭和62年記事について    被告らは、神戸新聞昭和62年記事については、記事の体裁を昭和60年記事、61年記事と比較すると、Aさん(宮村幸延)の談話をもとにしたものではなく原告梅澤からの伝聞を記事にしたものであることは明らかであるなどと指摘する(被告準備書面(7)13頁)。     しかし、これも強引で不自然な解釈である。記者が直接取った談話が、記事本文中に使われることも全く珍しいことではない。    宮村幸延は、『証言』書面を書いただけでなく、自らコメントを出し報道に協力したからこそ、先にも根拠資料を引用したとおり、村当局や関係者に激しく叱責されたのである(甲B26『第一戦隊長の証言』307頁、甲B5『母の遺したもの』270頁)。     被告らは、場当たり的に無理な弁解を重ね、真実を曲げようとし続けていると指摘せざるを得ない。     尚、被告らは、「『証言』は原告梅澤が宮村幸延を騙して入手したものなのだから」という前提の下、「宮村幸延が『証言』書面の内容を肯定する話を記者にするはずがない」との主旨を強調するが、やはり、前提部分がそもそも争いとなっているのであるから、このような主張も全く反論になっていない。「結論をもって理由とする」類の詭弁である。 5 兵事主任の地位と「玉砕」の心得について ⑴ 宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったことに関して     被告らは、実際上中心的に自決命令を下した宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったこと、自決命令を伝達した宮平恵達が「防衛隊員」であったことに着目し、自決命令の「軍命」性を根拠づけよう、あるいは印象づけようとしているが、大いに問題である。     即ち、被告らは、被告準備書面(7)19頁下から5行目以下では「軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任である助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ」と述べ、同16頁7行目以下では「助役(兵事主任兼防衛隊長)は伝令(日本軍の正規兵である防衛隊員)」を通じて自決のために忠魂碑前に集まるよう住民に指示したものであると述べる(下線部は原告ら代理人。その他同18頁5行目以下等でも、「防衛隊長」及び「防衛隊員」という言葉が意図的に使用されている)。    しかし、そもそも防衛隊が「軍の部隊」であるとか、防衛隊員が「日本軍の正規兵である」というのは、全く誤った認識である。また、兵事主任も軍の役職ではない。    まず、防衛隊については、『母の遺したもの』(甲B5)の下記のように正確な説明がなされている(197、198頁)。 「さて、昭和20(1945)年1月3日、日本軍の来島以来、陣地構築と漁労に従事していた座間味島の16歳から45歳までの男性たちが『防衛隊』として再編成され、(中略)この防衛隊隊員や女子青年の徴用は、前述したように義勇隊の性格を帯びたもので、法的には何に根拠のないものであった。(中略)隊員になった男性たちは、毎朝基地隊の兵士たちとともに点呼を受けたあと、壕堀りや壕内の坑木の切り出しを行い、夕刻の点呼まできつい労働に従事させられた。」    当時の座間味島での防衛隊は、法的根拠のない義勇隊、即ち軍に協力する(あるいは協力させられる)民間人であり、その活動内容も戦闘行為ではなかった。防衛隊は、「軍の部隊」と呼べるものではなく、「日本軍の正規兵」などでは到底なかった。「軍」の組織でもなく、「正規」でもなく、「兵」でもなかったのである。     次に、宮里盛秀助役が担っていたという「兵事主任」という役割は何か。これについても、『母の遺したもの』(甲B5)の下記のように正確な説明がなされている(212頁)。 「兵事主任は、村出身の在郷軍人のなかから村長が選任し、徴兵検査のための壮丁(徴兵適齢者)や現役入隊者の引率(いずれも那覇へ)、兵籍簿の整理、召集令状の伝達など、那覇にある連隊区司令部の下部機関としての役目があった。またその他にも、軍からの命令で勤労奉仕などの人員を確保したり、食糧の供出、住民の避難、集結と、すべて兵事主任の盛秀をとおして住民に伝えられ、実行された。」 即ち、「兵事主任」も軍隊内の職務ではなく、村の役職の一つに過ぎなかったのである。    実際、盛秀助役はあくまで村役場の立場であり、軍の一員として振る舞っていたわけではない。それが象徴的に表れているのが、『母の遺したもの』(甲B5)で述べられている、原告梅澤に助役らが面会を求めた場面である(214頁。下線部は原告ら代理人)。   「梅澤戦隊長の精神状態がおだやかではないところへ、5人は本部壕を訪ねてきた。助役の宮里盛秀は衛兵に『自分たちは役場のものです』と告げ、戦隊長への面会を強く申し入れた。しばらく待たされたうえで、やっと戦隊長が5人の前に現れた。」    以上により、実際上中心的に自決命令を下した宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったこと、自決命令を伝達した宮平恵達が「防衛隊員」であったことは、自決の軍命令性を何ら根拠づけるものではないことは明らかである。被告らが、防衛隊や兵事主任という役目について敢えて不正確あるいは曖昧な説明をしたり、軍命令性を印象づけようとしているのであれば、それは姑息な主張と言わざるを得ない。また、 盛秀が発し宮平恵達が伝えた命令が全て軍命令であったかのように被告らが述べるのも、全く失当である。 ⑵ 軍が住民に玉砕するよう言い渡していたとの点について    被告らは、座間味島では、昭和19年9月10日の日本軍の駐留後は軍により「米兵に捕まる前に、玉砕すべし」との心得の指導がなされたことを強調し、それを「軍による自決命令」の根拠とする(被告準備書面(7)18、19頁)。  確かに座間味島では、昭和17年1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式が行われており、その中で、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」の一つとして「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」との教えがあったのは事実であると思われる。 これは、『母の遺したもの』に述べられているところの要約であるが(96ないし98頁)、重要なのは、そこに続けられている下記の説明である。 「指導的立場にあったのは、村長や助役、学校長、在郷軍人会の会員であり、昭和19年9月から駐留するようになった日本軍であった。」  即ち、昭和17年1月から昭和19年9月までの2年8か月もの間は、日本軍が島にいない中、村幹部らがいわば自発的に指導していたのであり(なお、その間は、座間味島では防衛隊は組織されておらず、盛秀助役は防衛隊長ではなかった)、日本軍が指導に加わったとしたとしても、昭和19年9月から翌20年3月までのわずか6か月間のみなのである。    このような「玉砕」の指導の主体や期間のみを取り上げても、後の自決命令が、「軍命令」あるいは「梅澤部隊長命令」とされることの不自然さが浮き彫りとなって来る。    またそもそも座間味島に駐留して来た梅澤部隊は、任務遂行上の必要から村民に協力は求めたものの、村民に対し、指導を徹底するとか軍命令を行き渡らせるなどという発想は殆ど持っていなかった。特に「玉砕」に関してはそうである(原告梅澤の手記によると、「島民は当時沖縄で最も愛国的な村民で誠心誠意の人達であった。皆一致団結して協力して戴いたので大いに感謝し私以下部隊は親睦に留意し非違行為は1件もなかった」(甲B14・40頁上段))。    村民からしても、急にやって来た軍隊(当時、部隊長の原告梅澤にしても27歳の若者である)の短期間の指導だけで、自決・玉砕をする決意が固まるわけはなく、むしろ、共に暮らす村の幹部らが長年にわたり指導をしたからこそ、いざというときには自決・玉砕をする覚悟が出来て行ったものと思われる。    具体的には、村民のリーダーである盛秀助役が、忠魂碑の建立に尽力し、「大詔奉戴日」の儀式を中心的に執り行い、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を村民らに指導して来たこと、そしてそれが彼の自決命令の決断に繋がったことは、『母の遺したもの』216頁にも述べられている。 「彼は、村の助役として、3年余りにわたって、『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた中心人物であった。    追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。それは、各壕でそれぞれの家族単位でなく、全住民が集団で、忠魂碑の前で決行することに意味があったようだ。」  尚、座間味島において昭和19年9月の日本軍の駐留後、軍により「米兵に捕まる前に、玉砕すべし」との心得の指導がなされたことがあったとしても、それが「太平洋戦争」と「沖縄ノート」で述べられている《梅澤命令説》とは、懸け離れた事実であり、そのような「心得の指導」の有無は、そもそも本件訴訟の争点とはならないことも、念のため付言する。  また、被告らは、宮村文子が「小沢隊長」が「アメリカ軍が上陸したら耳や鼻を切られ、女は乱暴されるから、自分で玉砕しなさいと言いました」と述べている点(乙41)をも新たに軍命令の根拠としているが、宮村文子のかかる説明が真実であるとしても、その内容は《梅澤命令説》とは遠く離れた事実であり(原告梅澤は指示の主体ではなく、小沢隊長の言葉も「命令」とはとても言えないものである)、本件訴訟の中心争点とは殆ど無関係の事実である。  「上記のような『玉砕の心得』は座間味島に日本軍が来る前から日本軍が沖縄にも広めたのだから、結局日本軍が悪い」というような議論も、《梅澤命令説》の真否が争点である本件訴訟においては全く不適切である。蛇足ではあるが、かかる玉砕の心得は、「日本軍が一方的に広めた」というより、実際のところ国全体で共有した心構えであり、軍だけでなく、政府や国会も同意し、国民も受け入れ、マスコミも喧伝したものだったのであって(その心得の内容が正しかったのかについては別論である)、被告らが「日本軍」を殊更に強調するのも正当とは思われない。 6 県史の実質的修正について 被告は準備書面(7)20頁で、『紀要』(甲B14)末尾6行部分は、大城自身がその意見を書いたものではなく、大城が「原告梅澤の結論を加筆し付加したものである」と述べる(被告準備書面(3)8頁では、当該部分は「原告梅澤の文」である旨との強引な主張があったが、さすがにその点は被告も撤回したようである。)。 しかし、当該部分は、大城が原告梅澤の結論的見解を聞いてそれを書いたものとも到底読めない。 当該部分を改めて引用すると、以下の通りである。   「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)」              この第1文目の内容は、大城が、この紀要の36頁から「一、“隊長命令説”について」と項目立てをして書いている解説(以下「冒頭解説」という)と完全に符合した内容である。   即ち、大城はこの冒頭解説において、様々な文献を自身が分析検討した結果として、「“隊長命令説”には2種類の原資料が考えられる」(36頁下段9行目)、「“隊長命令説”には2種の根拠資料が存在する」(37頁下段末尾2行)と述べ、宮城初枝の手記『血塗られた座間味島・沖縄諸戦死闘の体験手記』と座間味村当局の『座間味戦記』をその2種の資料として挙げているのである(37頁下段)。   この一致一つ取っても、『紀要』末尾6行部分の第1文が、「原告梅澤の結論的見解」だとは、どう逆立ちしても読むことは出来ないはずである。何より、当事者として自身の体験した真実を手記等で訴えることに必死になっている原告梅澤が、一方で研究者の如き詳細な文献考証をし、その結果が大城と一致していたなどということがあろうか。この文献考証は、あくまで大城のものであり、原告梅澤のものではない。   結論として、『紀要』末尾第1文目は、大城の見解そのものであることは明らかである。   では、第2文目だけが「原告梅澤の結論的見解」かというと、それもあり得ない。そのように読むことを求めるのは到底無理というものである。   かといって、この部分が単に宮城初枝の一見解を中立的に紹介しているものとも読めないことは既に述べた通りである。即ち、上記文章は「(通説はこうなっているが、それに反して、その通説の根拠となった)決定的証人が『真相はこうだ』と明言している」との趣旨の結びをなしており、書き手が、決定的証人すなわち宮城初枝の語る「真相」を真実と考えて支持していると読まれて当然であり、実際、大城は紀要発表当時は、宮城初枝の説明及び原告梅澤の手記を真実と考えていたのである。 その証左として、大城は、『紀要』の冒頭解説の最後に下記のようにも書いている(38頁上段15行目)。   「いずれにしても、従来の“隊長命令説”は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者である梅澤氏から“異議申立て”がある以上、われわれはこれを真摯に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。」 大城は、原告梅澤の“異議申立て”に十分な真実性や説得力を認めたからこそ、「真摯に受け止め」ているのであり、「史実を解明する資料として役立」つものと評価したのである。   尚、これに至る過程については既に原告準備書面(2)8頁以下でも一部指摘したが、重要なので再度述べる。即ち、この昭和61年3月の『紀要』への原告梅澤手記を含む大城のリポートの掲載は、『沖縄県史第10巻』記載の《梅澤命令説》の訂正を求めた原告梅澤に対し、大城が昭和60年10月に親書(甲B25の1)をもって、 「当編集所では、毎年、『沖縄史料編集所紀要』を発行しており、県史とほぼ同範囲内(公共図書館、県機関、研究所、研究者など)に配布しております。したがって、もし、県史の記述に重要な事実誤認があり、そのため、関係者に多大なご迷惑をおかけする場合などには、同所に論文や記事を掲載して県史の記述を修正し、研究者およびマスコミ、関係者等に周知徹底することが可能であります。  今回の貴殿のご要望についても、もし責任者(解決執筆者・大城)がその必要性を認めるのであれば、同書にレポートを発表するのが最も現実的で確実な解決方法だと思われます。 (中略)  したがって、今回の場合も、宮城さんが前記の手記を修正する手記を発表されるか、あるいは貴殿の立場からより詳細な手記(新資料)を発表されるか、いずれにしても歴史資料として公認できる根拠資料を示されることが最も望ましい解決方法だと思われます。それにもとずいて(原文ママ)大城が修正記事を書くのであれば、編集所としては『紀要』の紙面を提供する用意があります。(下線部は原告ら代理人)」 と伝えたため、原告梅澤が手記を大城(沖縄県立沖縄史料編集所)に寄せ、それを受けて、大城が行ったものであった。    要するに大城は、同人自身の言葉を借りれば、《梅澤命令説》という「県史の」「重要な事実誤認」について、「責任者」として「修正」と「周知徹底」の「必要性を認め」て、原告梅澤の「詳細な手記」に「基づいて」、『紀要』に「修正記事を書」いて、実質的に「県史の記述を修正し」たのであった。    当時持っていた誠実な調査研究の姿勢、原告梅澤の名誉への配慮などを突然に捨て去り、神戸新聞に寄せたコメントはもとより、自身が責任をもって執筆発表したものまで否定し、その価値を貶める今般の大城の態度に接するとき、原告側としても、困惑と怒りを通り越して、悲しみと哀れを禁じ得ない。 7 宮村盛永『自叙伝』その他について    被告らは準備書面(7)21頁において、宮村盛永も《梅澤命令説》を認めている旨反論しているので、原告らは下記の通り再反論をする。 昭和63年の座間味村の沖縄タイムスへの回答(乙21の1)に宮村盛永が部隊長命令を認めている旨の記載はあるが、これは座間味村公式見解に沿った証言を宮村盛永がせざるを得ない状況に置かれていることが明らかな中のものであるし、内容も伝聞に過ぎないものであって、証拠価値は極めて乏しい。 宮村盛永が書き遺した『自叙伝』(乙28)には、下記のように助役で息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」との記載があることは認めるが、これは果たして《梅澤命令説》を裏づけるものであろうか(下線部は原告ら代理人)。 「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味の山は殆ど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然とするばかりであった。丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。」と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機関銃は頭をかすめてピュンピュン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさい』との事であったので、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったか政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」(以上、No.70、71部分) 上記の下線部の宮里盛秀の「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」との言葉は、まだ出てもいない「命令」を盛秀が何故か予測していることや、既に縷々述べた通り盛永その他住民ら自ら「玉砕」の覚悟を固めつつあったことを考え合わせると、盛秀が「今晩、村として、住民の玉砕について、軍の許可をもらって、命令(あるいは指示)を出す(あるいは軍から出してもらう)。そして、自決のための武器をもらう」ということを意図していたものと読むのが相当であろう。    尚、村民が自ら「玉砕」の覚悟を固めつつあった点については、他にも、『母の遺したもの』(甲B5)においては、3月25日に宮里盛秀とともに原告梅澤に会いに行く直前、初枝が他の村民と下記のようなやり取りをした件が紹介されている(37、38頁)。   「私とてじっとしてはおれません。何度か艦艇を見に行っては戻りのくり返しで、道らしい道もないまま無造作に歩き続けていました。私と同じように、いても立ってもいられなくなったという宮平つる子さんとばったり出くわしました。  つる子さんは覚悟を決めているらしく、『初栄さん、私と一緒に死にましょうよ。どうせ助からないのよ』と言ったので、私も同じことを考えていましたので、『一緒に死にましょうね』と、語気を強めて応えました。」   被告らは、1955(昭和30)年の『地方自治七周年記念誌』(乙29)に「部隊長による老人子供への玉砕命令」が明記されており、宮村盛永がそれを支持しているとするが、前記『自叙伝』からすると、宮村盛永自身は、原告梅澤によるかかる命令を聞いていないことは明らかであり、そもそも「部隊長による玉砕命令があった」と断じることの出来る立場にはないことは明らかである。    何より、原告らが真実と主張する《盛秀助役命令説》においても、多くの村民が当該命令を軍あるいは部隊長からの命令と信じたことを否定するものではないし、矛盾もしないのである(原告準備書面(5)5頁)。宮城初枝が真実を公表するまでに村民により纏められたこの『地方自治七周年記念誌』において、《梅澤命令説》が書かれていることが直ちに真実を裏づけるものとはいえない。けだし、その根拠となったものこそが、宮城初枝が後に嘘であることを告白した証言だったからである。 8 住民の手記について    被告らは、その準備書面(7)21頁において、「軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、『命令』は軍の命令以外にはありえない」との主張をしているが、極めて粗雑な議論であり、かつ、根拠のない断定である。村に軍が駐留していようとも、村幹部による命令ないし指示・指導も村民に対してあったことは、『母の遺したもの』他に明白であるし、一方、梅澤部隊は、米軍上陸前は戦闘準備に追われ、米軍の攻撃開始後には出撃基地が破壊されるなどしてその対応に忙殺されていたのであって、住民集団自決前後に、村民の動静の把握統制等を強力に行う余裕などなかったのが実情であった(甲B14・41頁等)。    また被告らは、「野田隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示も《梅澤命令説》の根拠となる」旨の主張もするが、前記のとおり、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」の一つとして「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」との教えが軍民問わず広められていたのは前記の通りであって、野田隊長らの住民らへの「玉砕」の示唆も、それぞれ追い詰められた状況で、かかる教えが確認的に述べられたものに過ぎない。軍主導でもなく、命令でもないようなこれらのエピソードをもって、  《梅澤命令説》の根拠などと被告らが強弁することの不当性は明白である。 また、後述するように、阿嘉島の野田隊長は、自決命令を出していないし、阿嘉島では集団自決そのものが発生していないのである。 第5 《赤松命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論  1 照屋昇雄(元琉球政府援護課職員)証言について  ⑴ 被告らは『鉄の暴風』(乙2)は、沖縄タイムス社が、集団自決の経験者を集めて取材し、その証言を記録したという。 しかし、曽野綾子氏によれば、「太田氏が現実に取材したのは当時座間味村の助役の山城安次郎氏、南方から復員した宮平栄治氏である。宮平氏は事件当時南方にあり現場を見ていない。山城氏が目撃したのは渡嘉敷島でなく隣の座間味島の集団自決である(甲B18・50、51頁)。また宮平栄治氏は取材を受けた記憶がないという」(同51頁)。 そうすると、渡嘉敷島に関する『鉄の暴風』の資料は、直接体験者でない者からの伝聞証拠という形で、固定されたことは明らかである(同51頁)。 ⑵ 被告らは『鉄の暴風』に、赤松隊長の集団自決命令を裏付ける決定的な件として「3月27日に地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」という記載があることを指摘する。 しかしながら、曽野氏が昭和46年7月に那覇で知念元少尉に会った際、地下壕で将校会議があったのか質問したところ、知念元少尉は「地下壕はなかったし、集団自決を命じる将校会議が開かれた事実もない」と明確に否定している。知念元少尉はさらに「昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切インタビューを受けたことがない」とも明言している(甲B18・112,113頁)。 集団自決命令を決定的に裏付ける地下壕も将校会議もなかったということになり、『鉄の暴風』は本人にインタビューせずに知念元少尉の経験を記載する程に杜撰なものである。そうであれば、赤松隊長の自決命令がなかったと言われるのは当然のことである。 ⑶ また被告らは、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(乙10)に赤松隊長の自決命令の記載があるというが、曽野氏は『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』は『鉄の暴風』と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ないこと、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』に引用した際のものと思われる崩し字が見られること、『鉄の暴風』の発行年月が早いこと(甲B18・48頁)、昭和20年3月27日の米軍上陸という重大な日を、同じく昭和20年3月26日と間違って記載することなどから、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』が『鉄の暴風』の間違いを引写したに過ぎないと指摘している。 『鉄の暴風』の自決命令が信用出来ない以上、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』に記載されている自決命令説も信用性がない(同49頁)。 ⑷ 戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用において集団自決者が特別に援護の対象となったのは、他の戦争被害者と異なり、自決命令があったことを前提とする。一般的に戦争の被害者ということだけでは特別な援護法の対象となり得ない。軍の活動に関与したり、あるいは軍を援助したり、軍により壕からの強制退去を求められたなどの特殊事情のある場合に戦闘協力者として援護の対象とされた。集団自決者については命令による自決とすることで、援護の対象とされたものである。集団自決の場合には当初から援護法の対象になっていたということはない。 集団自決者が最初から援護法の対象となっていたとするならば被告らはその根拠を明らかにすべきである。 ⑸ 被告らは、既に虚偽であることが明らかになった座間味島の自決命令の他に、今回は阿嘉島の野田隊長から、「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」とする大城昌子証言を持ち出して「自決命令の訓示」があったする。 しかし、大城昌子証言は自ら玉砕命令を受けたものではなく、他人から玉砕命令があったことを聞いたというものであり、単なる伝聞に過ぎない(しかも、玉砕命令を告げたのは、取材した当のインタビューアーである可能性もあり、風聞の域を出ない)。しかも証言はその後に、「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。ただ家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色をみせるだけで、考えることといえば、天皇陛下のことと死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」と続くのであり(乙9・730頁)、むしろ島民には自決命令の有無と関係なく自決しようとしていた固い決意が看取される(この点は、『母の遺したもの』に書かれた座間味島における初枝と宮平つる子とのやりとりや、盛永の『自叙伝』に描かれた自決の決意の形成過程と同種のものである)。文字通り、「命令なんてものは問題ではなかったわけです」ということを受け止めるべきである。 前記大城証言をもって、あくまで自決命令があったというのは、いかにも牽強付会の誹りを免れない。 座間味村には座間味島、阿嘉島、慶留間島が含まれる。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかったことを県史が認めているのである(乙9・700頁)。 ⑹ 阿嘉島の中村仁勇は「野田隊長は住民に対する措置という点では立派だったと思います。26日の切り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへいって、『住民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』と聞いたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです。」と証言している(乙9・708頁)。 このような状況で自決命令が出るはずがない。 ⑺  阿嘉島の中島フミは「軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は『お前たちは心の底から死にたいとは思っていないから殺さない』といわれた」と証言している(乙9・718頁上段)。 自決命令が出ていれば、殺してくれと頼まれて拒絶する理由はない。 ⑻ 阿嘉島の垣花武一は「その後公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は『降伏したい者は山をおりてよし』という命令をだしたため、3分の2近くの者が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました」と証言している(乙9・725頁上段)。 野田隊長が予て自決命令を出したとすれば、この段階で逃亡許可を出すことはあり得ない。 以上の事実からすると、被告らが大城昌子証言を著しくねじ曲げて自決命令があったと強弁していることは明らかである。 2 手榴弾配布=軍命令説の破綻について ⑴ 被告らは大江志乃夫や林博史の著書の記述に関して、両著者の感想に過ぎないとし、自決命令がなかったとは言えないとする。しかし、沖縄戦についての有力な作家である両著者が感想であっても、自決命令がなかったとの印象をもったことは重大である。 ⑵ 富山証言のいかがわしさは既に原告準備書面(2)41〜44頁、原告準備書面(3)第2の2〜9頁、原告準備書面(5)の第4の3(48頁以下)で強く批判したところからも明らかである。 更に、手榴弾についての富山真順の供述のいい加減さについては後述する。 3 『鉄の暴風』と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について ⑴ 富山真順による手榴弾の3月20日配布時に命令がなされているという主張について、それ自体が虚偽であることは、原告準備書面(2)の41〜44頁、原告準備書面(3)の第2の2〜9頁、原告準備書面(5)の第4の3(48頁以下)で強く批判したところである。  被告らは、赤松隊長が住民を殺害した事実を取り上げて赤松を援護する者のみを取材したと『沖縄戦ショウダウン』を批判するが、これらの者の取材すら行わないで『鉄の暴風』、『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』『座間味村渡嘉敷村戦況報告』が作成され、沖縄の戦争に関する世論を形成していった事実こそ歪という他はない。 沖縄における新聞の発行部数は沖縄タイムスと琉球新報が各20万部、朝日新聞が800部、産経新聞が300部という現状がある。沖縄タイムスによる『鉄の暴風』によって沖縄における言論がいかに現実とかけ離れたものになったかは想像に難くない。それを端的に表すのが『沖縄戦ショウダウン』の記述である。 ⑵ 更に被告らは、休養日の手榴弾配布は不自然でないとか、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に攻撃することがあっても沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えただけであり、赤松部隊玉砕後の渡嘉敷島の攻撃が考えられるから、手榴弾を配って訓示することは不自然でないと主張する。 しかし、戦闘が起こりそうな場合に、直近の戦闘に対する用意の前にそれより遠い戦闘の準備をするということはあり得ない。特に赤松部隊は特攻隊であり、特攻後の住民のことを考慮していなかったことは知られている(甲B18・36頁)。 弾薬の管理、金城重明の供述の変遷、太田良博の供述については、既に前回の準備紙面で主張し尽しているので触れない。敢えて付言するならば、沖縄戦に関しては被害の大きさ、あるいは日本軍の残酷さ、戦争の悲惨さという意味ではどのような極端な話でも通るという雰囲気が沖縄戦を巡る記事には見られる。しかし、それは戦争の時に止まって未来に目を向けないことに他ならない。 ⑶  赤松隊長による住民虐殺についても同じことが言える。例えば、渡嘉敷島の防衛隊員であった大城良平は赤松隊長の住民虐殺について以下のように述べている。 @ 「大城(徳安)先生は、具合が悪かったのです。何度逃げたか分かりません。防衛隊といえども軍隊の一員であるという自覚の全然ない人でした。逃げては捕らえられて、罰せられるのですが、ききめはありません」(乙9・781頁下段〜782頁上段)。 「捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては大変迷惑な話です。敵につれ去られていって、4、5日してから帰ってくる。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します」(同780頁下段)。 「その後また逃げて、とうとう斬られてしまいました」(同782頁上段)。 このような事情を、平時の感覚を前提に住民虐殺と呼ぶのは無理である。 A 「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ赤松は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていたのです。ではなぜ自決したか。くだけていえば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。結局、自決は住民みんなの自発的なものだということになります。」(同781頁上段)。 殺された大城安徳と同じ渡嘉敷島の人の言葉としてかみしめるべきではなかろうか。   4 手榴弾の不発について 従来、渡嘉敷島の集団自決に手榴弾が使用されたことから自決命令を根拠づけようとする試みが行われて来た。 ⑴ ところが渡嘉敷島での集団自決では、手榴弾が爆発しなかったために死ねなかったという者が少なくない。住民も「不発のほうが多かったですねえ」という(甲B18・151頁)。そして『鉄の暴風』ではその時死んだのが329人、手榴弾の不発で死を免れたのが渡嘉敷部落が126人、阿波連部落が203人、前島部落民が7人(計336人)であった」とする(乙2・35頁)。 不発の方が多い手榴弾ということは現実の問題としてあり得ない。手榴弾が爆発しなかったのは何故か、これまで疑問が提起されなかったが、問題を含むので検討する。 ⑵ 曽野綾子氏は『ある神話の背景』で「住民の多くはやはり手榴弾の起爆法を知らなかったのだという」(甲B18・151頁)。 ア 手榴弾は安全ピンを抜いて手榴弾の信管を軍靴、鉄兜などの固いもので叩くことによって信管の中の撃針が雷管に衝撃を伝え、これで点火し、火薬が4〜5秒導火した後で本体の火薬を誘爆させる。手榴弾は防水・密閉構造になっており、雨で濡れても使用出来、水中でも爆発する。 日本軍の手榴弾は不発弾が極めて少なかったことで知られている。 イ 赤松隊長が自決命令を出して手榴弾を配ったのならば、赤松隊長やその部下から村民に手榴弾の操作方法が指導されていたはずである。自決のために配布しながら、手榴弾を爆発させる方法を教えないはずがないからである。しかし、手榴弾に不発が多かった事実は、手榴弾の操作方法を教えらないために爆発させることが出来なかった者が多数いたことを物語っている。    そして手榴弾の扱い方を教えられなかったということは、自決命令のために手榴弾が配布されたのではないことを示している。 ⑶ 手榴弾が爆発しなかったために死ねなかったという者には、手榴弾の操作方法を教えられなかった者と、操作方法は知っていたが、手榴弾が爆発しなかった者があるように思われる。 ア 例えば渡嘉敷村の古波藏惟好村長の場合は、手榴弾の操作方法を知っていたと思われる者で手榴弾が爆発しなかった例である。古波藏村長(33才)は在郷軍人であったし(甲17−206)、現役の陸軍伍長であったというが(甲B20−223段目)、そうであれば手榴弾の操作方法を知っていたと思われる。 しかるに、古波藏村長は「私は防衛隊員からもらった手榴弾を持って、妻子、親戚を集めて、信管を抜いた。私の手榴弾は一向に発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んで見せようと、パカっと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれを繰り返すのみで死に切れない」という(乙9・768下段)。 古波藏村長の経歴からすると手榴弾の操作を知らなかったということは考えにくい(旧式の手榴弾の操作しか知らなかったという可能性もあるが)。にも拘らず、手榴弾が2発とも不発であったというのである。不発が極めて少なかったと言われる日本軍の手榴弾だから大きな疑問が残るのである。 イ 古波藏村長の義理の弟である徳平秀雄も「自分が死ぬのを待っていた。何も考えなかった。村長はパカパカ叩いてはそれを自分のふところにいれていた。発火しない手榴弾に私はいらだち、村長から奪いとって、思い切り、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり爆発しません。周囲はどかんどかんと爆発音を発していました。」という(乙9・765下段)。徳平秀雄の場合は手榴弾の操作を知らなかったと思われる。 ウ 手榴弾が爆発しなかった場合、皆生き残ったわけではない。手榴弾が爆発しないため他の方法で自決した者もいる。クワやかみそり、棒で殴って死なせたり、首を吊って死んだ人もいたのである。赤松隊長の自決命令が出たのであれば、手榴弾が爆発しなくても、なお強い意思で自決を決行したと思われる。 そうすると生き残った者で、自決命令が出たわけではないから死ななかったという者もいるのではないかと思われる。生き残ったことを弁解するために手榴弾が不発で死ねなかったという説明を選択した可能性はある。 このように、手榴弾の不発には色々と疑問が残ると言わざるをえない。 ⑷ 牧師の金城重明の場合は、「私たちは手に手に手榴弾のピンを抜き爆死を試みたが、前日からの雨で湿気をうけていたせいか、ほとんどが十分に発火せず、手榴弾の犠牲者はほとんどなかったといってよいくらいだ」という(甲B21・118頁)。 しかし、手榴弾は防水・密閉構造になっており雨で濡れても使用出来、水中でも爆発する。日本軍の手榴弾は前夜からの雨で爆発しないということはあり得ない。金城重明の場合は、操作方法を教えられていなかったため適切な起爆が出来なかったのであろう。それはとりもなおさず赤松隊長の自決命令がなかったことを明らかにしている。 ⑸ 富山真順の手榴弾の不発について 富山真順は、『ある神話の背景』(甲B18)や『沖縄戦を考える』(甲24)で昭和20年3月27,28日の自決命令説の虚偽が明らかになったことから、昭和20年3月20日に手榴弾の配布を持ち出して手榴弾の配布=自決命令説をこじつけようとした。その経過は原告準備書面(2)の第2(41〜44頁)、原告準備書面(3)の第2の2〜9(6〜11頁)、原告準備書面(5)の第4の3(48〜51頁)で強く批判した通りである。 更に手榴弾に関する富山真順の証言の信用性のなさを指摘する。 ア 富山真順は週刊朝日の中西記者に、「自分も手榴弾2個をもっていました。近くの石でコツコツと叩いたのですが、はじめの一個は何秒たっても不発のまま。もう一個あるから、と思ってなげすてて残りのをコツコツとなったのですが、これも不発。おかげで死にそこないました。」後になってわかったことだが、手榴弾は、輸送中の安全を図ってネジをゆるめてあり、使うときネジを締めなければならなかったのだ。」という(甲B20・16、17頁) イ しかし、これも明らかな虚偽である。手榴弾は安全ピンを抜いた上で起爆筒を叩くことによって発火、爆発する。手榴弾を石でコツコツと叩いただけでは発火しないのである。富山真順が手榴弾を2個も爆発させることが出来なかったというのは、操作方法を間違っている可能性が高い。 ウ 更に手榴弾を、輸送中の安全を図ってネジを緩めるということはない。 使うときネジを締めなければならないというのも全くの虚偽である。ネジを緩めようが、締めていようが安全ピンがついている以上、安全性には何ら影響がないからである。安全ピンをつけて輸送輸送中に爆発した手榴弾の例は知られていない。安全のためにネジを緩めて輸送する必要は全くない。 輸送中にネジを緩めて、さらに使用する時にネジを締めるというためには特殊な工具(レンチ)を必要とする。戦線で直ちに使用に供される武器をレンチで締め直さなければ、使えないとすれば、そのような手榴弾は実戦に役に立たない。 仮に富山真順の言う通りネジを緩めたとすれば、自決のために手榴弾を配ったとき、ネジを締めたのを渡すか、締めて渡せというはずである。しかし、そのような事実は全く触れられていない。それは、自決命令がそもそも無かったということを意味している。 富山真順という人物は3月20日の手榴弾の配布という虚偽だけでなく、「手榴弾のネジをゆるめた」という虚偽すら捏造する人物なのである。   ⑹ 赤松隊長命令説が破綻した後でも、尚、命令の存在を強弁して3月20日の手榴弾配布を主張する富山真順のような人物がいるかと思えば、全く別の観点から自決命令に疑問を投げかける証言がある。 例えば、渡嘉敷女子青年団匿名座談会では、「私の弟が自分は死なんぞと手榴弾を捨てて逃げてしまった」と証言する(乙9・788頁)。 これは、集団自決が軍命令によるものであることを否定する証言といえよう。島民は、嫌だと思えば手榴弾を捨てることも出来たのである。集団自決は戦争に追い詰められた島民の究極の選択だったのであり、軍命令により強制されたものではないのである。 以上
posted by みなき at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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