2007年03月30日

沖縄集団自決冤罪訴訟第8回口頭弁論原告準備書面 http://minaki1.seesaa.net/より続く。

序 はじめに



第1 「慶良間列島作戦報告書」と「集団自決命令」について
1 資料と被告ら主張の問題点について
被告らは、準備書面(7)の第1の1(米軍の「慶良間列島作戦報告書」−「軍の自決命令」の存在)において、@乙35の1、乙35の2の「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」を基に、A本件「座間味島」・「渡嘉敷島」における集団自決、及びB軍の「命令」の存在を主張している。
しかし、以下に詳述するように、「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」の記事(乙35の1、乙35の2)は、いずれも本件における「原告梅澤少佐」ないし「赤松大尉」による「座間味島」ないし「渡嘉敷島」における集団自決「軍命令」の存在を立証するものでは到底ない。むしろ、注意深く読めば、それは、「軍命令」が存在しなかったことを示しているす証拠というべきものである。

2 @乙35の1、乙35の2「米軍作戦報告書が掲載された沖縄タイムス」について
⑴ 原本ではない二次資料性について
    まず、そもそもの問題は、被告らの主張は、沖縄タイムスに一部分が掲載されたのみで、全文でもなく、どのような文脈の中で記載されたかも判らないものを、乙35の2の林教授の見解意見をも混在させた上で議論している点である。
    被告らが主張するように、米軍の公文書である「作戦報告書」に記載があるというのならば、まず、そもそも、乙35の2に見られる特定の意見を持つ林教授の見解意見を除いた形で、純粋に文書から、どのようなことが読み取ることが出来るかという作業が必要となるはずである。
    しかも、乙35の1、乙35の2に記載の英文は、本件とは関係がない座間味村「慶留間」(「げるま」と読む。)島のものであって、肝心の座間味村「座間味島」に関する作戦報告書については、沖縄タイムスの記事(乙35の1)にも、林教授の論説(乙35の2)にも、林教授が訳したとみられる(以下にも述べるが、この翻訳も恣意的であると言わざるを得ない。)訳文の記載しかないのである。
⑵ 米軍資料の特殊性と情報戦について
   それをおいても、被告らの主張によると、対象となっているのは米軍の「作戦報告書」ということである。被告らの主張は、米軍資料が全て「正しく」「中立的」に記載されていることが当然の前提となっているが、当時の敵国の、しかも、自らの部隊の戦果を報告する目的(当然、公文書という形で部隊の武勲を公的に表すことで、それは後に軍人としての評価に繋がるものである。)を有する「作戦報告書」が、その文書の性質から、「正しく」「中立的」に記載されているとは、到底言えないのである。そして、米軍は、対日本戦において、極めて情報戦略を重視していたことが今日では明らかになっている。沖縄出身者を含む多くの日系二世(アメリカ人である。)が通訳尋問役として活躍しているのであり、この点においても尋問の結果の記載が「正しく」「中立的」なものとして受け入れることには慎重にならなくてはならない。
当時、アメリカとしては、「正義のアメリカ軍」、「不正義の日本軍」という図式を必要とし、これを情報戦略として利用していたことは忘れてはならない。そのことは、占領統治下において書かれた「鉄の暴風」にも貫徹されている図式である。図式から事実を主張することが、「真実」を如何に見失うかということは、被告らの主張に共通するものである。
    また、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに記載された英文が真実「作戦報告書」ならば、それは軍人により書かれたということであり、当然軍隊の性質、軍隊の命令形式等を踏まえた形で書かれていることになる。その英文を米国軍人により書かれたものという視点からみれば、後述するように、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事は、むしろ、「軍命令」はなかったということを浮き彫りにするものと言うべきである。

3 A「慶留間島」と「座間味島」
   乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記載、特にその英文の記載は、そもそも、「慶留間島」(げるまとう)のもので、本件とは何ら関係がない。被告らの主張は、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事においては、記載の上からも一応区別されているものを、一緒くたにしている。「慶良間」(けらま)列島(これは、座間味島、渡嘉敷島、慶留間島が含まれる)の中にある「座間味島」、「渡嘉敷島」とは異なる「慶留間島」を混同させるような被告らの主張は、極めて不誠実なものであり、姑息であるといえよう。
   正確にいえば、座間味村は、座間味島、慶留間島、阿嘉島を含むものであるが、本件で問題となっているのは座間味村「座間味島」と渡嘉敷村「渡嘉敷島」での集団自決なのである。乙3・11頁からも明らかなように「慶良間島」には大下戦隊長が、「阿嘉島」には野田戦隊長が、特攻戦隊長として赴任し、特攻断念後、守備隊長となっていたのであった(尚、慶良間島でも、阿嘉島でも集団自決は確認されていない。)。

4 B「命令」について
⑴ 英文和訳の不正確性について
 さて、上記問題点をひとまず置くと、大切なことは、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事に断片的に掲載されている英文のみから、どのようなことが読み取ることが出来るかである。英文を仔細に検討すると、それが「軍命令」を立証するという被告らの主張は、いよいよ怪しくなるばかりである。むしろ、この英文を正確に読めば、慶良間島においても「軍命令」がなかったことを示す証拠と言うべきものとなる。
乙35の1、乙35の2に掲載されている翻訳文は、林教授の訳であるが、極めて恣意的な翻訳となっており、軍命令が存在するとの自己の見解を投影し、英文本来の意味をねじ曲げたものとなっている。
   対象の英文原文は、次のようなものである。
 
「Japanese PW’s  consisted of approximately 100 civilians, Two inclosures were established, one for males and one for women and children. Civilians, when interrogated, repeated that Japanese soldiers , on 21 March, had told the civilian population of Germa to hide in the hills and commit suicide when the Americans landed. Interrogation also revealed that Japs had been in much greater strength on the island but had been evacuated to Okinawa in early March.」

この英文につき、林教授は、第1文、第2文のみを取り出し、次のように訳している。

「約百人の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、三月二十一日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」(乙35の2)

そして、林教授は、この自らの翻訳文を基に、「軍命令」の存在を主張しているのである。しかし、林教授による翻訳文は、英文和訳としても大いに不正確なものであった。

⑵ 「tell 人 to 〜」 の訳の誤りについて
まず、文法と語彙の問題である。最も肝心な「命じた」と訳している部分である。
「tell 人 to 〜」は、「say to 人」若しくは「Do 〜」
と言い換えるのが普通であり、乙35の1の見出しのように「軍命」と訳すには、全く不適切な言葉である。
「tell」の訳について、今日最も一般に使用されていると考えられるジーニアス英和辞典をみると、「tell」の「基本義」は、
「情報を言葉で相手に伝える」
であり(甲C8・1957頁)、そこから、「話す;伝える」「知る」という大きな意味が派生し、更に「話す」から「口外する」「言いつける」「・・・しなさいと言う」という意味が派生することになるのである(甲C8・1957頁)。命令の意味合いは、その延長上に派生するものであり、地位の上下を要しない「ask」(頼む) や「require」(要求する) より、強い意味合いがあるとされていることに留意すべきである。
    他方、「命令する」という単語を、これも今日一般に使用されていると考えられるジーニアス和英辞典でみると、
       「order」、「command」、「direct」、「instruct」
   という単語が示されているが(甲C9・1774頁)、「tell」は記載されていない。上位の者が下位の者に言いつけることをいう「命令する」という日本語からは、「tell 人 to 〜」は示唆されないのである。
甲C9・1774頁の「direct」の記載において、
      「order、commandより弱く、instructより強い」(甲C8・550頁「direct」にも「command 、orderほど強い命令ではないが、instructより強い」と同様の説明がされている。)
   と命令の強弱についても説明がされている。これも言葉の「原義」「基本義」をもってすれば、自ずと分かることである。
    「order」の「基本義」は、「順序正しさから生まれた規律」であり、ここから、「規律・秩序」が派生し、更に「命令」(決まりに従うような指示を出すこと)という意味が派生する(甲C8・1375頁)。
    「command」の「原義」は、「まったく(com)任せる(mand)→指揮権をゆだねる」である。ここから、「〈権力者が〉〈事を〉命ずる」「〈人に〉・・・するよう命令する(order)」という意味になるのである(甲C8・392頁)。「order」と「command」との関係は、「order」がより一般的な用語であり、「原義」「基本義」からすれば、どちらかというと「command」の方が強い意味を有することになろう(甲C10)。
「direct」の「基本義」は、「ある場所・方向へ直接導く」であり、ここから、「向ける」→「道を教える」、「指導する・監督する」、「指図する」という意味が派生するが(甲C8・550頁)、上記和英辞典で「命令する」という意味を有するとされながらも、英和辞典では、項目としては、「命令する」という意味は挙がっておらず、「指図する」という訳の項目の中の例文で「The policeman directed that the crowd proceeded slowly」を「警官は群衆にゆっくり進むように命令した」と訳しているものがあるだけである(つまり、この「命令」は「指図する」と言い換えることが出来ることを辞書自体が示しているのである。)(甲C8・550頁)。
    念のため「instruct」の「原義」は、「上に(in)積む(struct)→積み上げる→築く→教える」と派生し、意味の項目としては、「指示する」「(細かく)指図する」の項目の中にこれらを強調する黒文字にして、強調されない白文字で「命令する」が入っているのである(つまり、この「命令する」は、「指示する」「指図する」と言い換えることができるものである。)(甲C8・1028頁)。
    以上からすると、上記和英辞典で「命令する」の意味を有する語を強弱で並べると、
          command >order>direct>instruct

ということになる。「tell」の「基本義」は、上記に述べたように、
   
        「情報を言葉で相手に伝える」

であるが、これは、上記「direct」の「基本義」である「ある場所・方向へ直接導く」より、更に働き掛ける力は弱い。「原義」からすれば、「instruct」の「教える」に近い。和英辞典において「命令する」という意味で、「tell」「require」「ask」を掲載していない意味は、このことをもってしても分かるはずである。「命令する」を英訳する場合に、多義的でしかも、本来の「基本義」からすれば、「direct」より弱い意味しか有していない「tell」を使用するのは不適切ということになるのである。
    つまり、「tell」(「tell 人 to 〜」)は、「命令」の広い意味を持ち一般的な語でもある「order」や、上下関係に立ち、権力(権限)のあるものが公式(正式)に命令を下し、服従を予定することが前提となる言葉である「command」(本来の軍命令といえば、これである。)や「order」よりは「命令」の意味は弱く、監督や指示を与える(しかし服従を予期している)語である「direct」という直接「命令」という意味が導かれる語よりは極めて弱く、上下関係にない者同士の強い要求や依頼(「require」「ask」)のニュアンスを有するのである(この点について纏めた辞書としては、甲C10の説明が詳しい)。本件の英文は、軍人によるものであり、この用語の使い分けについても当然理解した上で「tell」を用いているものと考えられる。軍隊の文書というものは、その性質上極めて用語の使い分けには厳しいものだからである。軍人が、民間人に対する「軍命令」(command)は存在しないことが前提で(民間人は、軍の部下ではない。)、より弱い意味で多義的な「tell」を敢えて使用している――「order」でも「direct」でも「instruct」でもなく―― 英文について、「命令」と前後の意味も考えずに訳すのは明らかに間違いというべきものである。
即ち、敢えて「tell 人 to 〜」の用法を使用している原文は、軍による自決命令の存在を否定することを示すものというべきなのである。

本件における「tell 人 to 〜」は、せいぜい「direct」より更に弱い意味を持つ「instruct」(教える、指図する、指示する)のニュアンスを持つ「しなさいと言った」と訳すのが、その文脈からも英文本来のニュアンスからも正しい翻訳であり、「tell 人 to 〜」を、その前後の意味、語自体のニュアンスの違いも考えずに「命令」と訳し、そこから「軍命令」の存在を読み込むことは明らかに誤りである。

⑶ 「Japanese soldiers」なる主語について
林教授も、この英文の主語が、複数形であることを認めている(乙35の2)。
そのことは、翻訳文で命令とされたものが、特定の命令者による「命令」ではく、複数の「soldiers」によるものであることを示唆している。つまり、ここから直ちに軍による「命令」を読み取ることは出来ない。
「soldiers」という言葉は、それを軍人が使用したとなれば、特別な意味を持つ。「soldier」は、兵士一般を指す一般的な用語であり、士官(将校ともいう)「下士官」も含むものである。この言葉自体が誰と特定して言っている語ではないのである。本件「原告梅澤少佐」なり「赤松大尉」のような特定の将校が「命令」を出したというのであれば、例えば、将校である高級士官の意味を含む「officer」を用いているはずであるが、これらの言葉は使用されていない。翻って考えれば、この英文は、部隊の功績を示す「作戦報告書」である。仮に非道な命令を日本軍の「officer」がしていると確認出来れば、積極的に「officer」と記載しているはずであるが、そう記載されてはいないのである。
この「Japanese soldiers」という主語は、特定もされない一般的な「日本の兵隊達」と訳すのが普通であり、組織的な命令の存在が想定されていたとは到底思えないのである。

⑷ 「山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じた」について
林教授による上記翻訳文は、原文自体から考えれば無理があり、そこに軍命令を読み込みたいが余りの恣意的な訳であると言わざるをえない。
まず、「when the Americans landed」は、「to hide in the hills and commit suicide」の「to hide in the hills 」(山に隠れろ)まで係るものと解するのが自然である( 「commit suicide」の前に「to」がないのは、これを一連の状況として理解すべきものであることを示唆している)。ところが、林教授の訳文は、「commit suicide」に「to」が省略されていることを敢えて看過し、「to hide in the hill」と「commit suicide」を分断している。「when 〜」が両方に係るとして翻訳すれば、「アメリカ軍が上陸したときは」、「山に隠れ、そして自決しなさい」「と言った(tell)」ということになる。「山に隠れろと命令した」と訳するのは明らかにおかしい。この英文は、「to hide」と「(to)commit suicide」とが共通して「tell 人 to 〜」の構文を採っており、「tell 人 to 〜」も両者の動詞として共通する意味を持たさなければならないのであるが、林教授は、「tell 人 to 〜」に「命令」の意味を持たせたいためだけに、敢えてこの訳文では、「to hide」(隠れろ)を分断させているのである。
仮に、軍による「自決命令」が出ているのであれば、住民に「隠れなさい」と言うことはおかしい。兵士達が、住民に対し、強制的な自決「命令」の遂行を妨げるかのように「山に隠れなさい」と言っていること自体、「軍命令」を否定する証拠というべきである。何故「隠れなさい」と言ったかは、後述するが、占領軍の地元住民に対する非道が、国際法の存在に拘らずよく見られることから、まず自分の命・名誉を守るためにこの対処をアドバイスしたのである。
つまり、訳文としては、「Japanese soldiers」(日本の兵隊達は)は、「アメリカ軍が上陸したときは、山に隠れなさい、(そしていざとなったら)自決しなさいと言っていた。」と訳すのがニュアンス的にも正当である。

⑸ 被告ら主張の前提の誤りについて
被告らの主張、そして乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスには、わざとかは知らないが、あたかも占領軍であるアメリカの「善」を当然の前提にしている点が見受けられる。
林教授の意見にも、次のような箇所がある。
「日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女は強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった」(乙35の2)
「米軍に保護された島民たちからは、家族を殺したことを悔い、山に隠れている人たちに本当のことを話して死なずに家に戻るように話したいとはっきりと言う人たちが何人も出てきたということも書かれている。捕虜になることを恥辱と信じ、お国のために殉じようとしていたならば、こういう意識にならなかっただろう。」(乙35の2)
上記林教授の意見には、「日本は、『アメリカ軍は(事実はそうでないのに)殺人者』と嘘の宣伝をしており、実際にも米軍は島民を保護することは当然であった」旨の、正にアメリカの「宣伝」を前提としている点で失当であり、この点を当然の前提とすると、上記日本兵達が島民に何故「山に隠れなさい」と言ったのか、何故「自決しなさい」と言ったのかが見えて来ない。
忘れてはならないのは、占領軍が現地の民間人に対して非道な仕打ちをしていたことは、第二次世界大戦前当時、そしてその後のアメリカ軍、ソ連軍、国民党軍、中国共産党軍、ベトナム戦争の際の韓国軍、人民解放軍のチベット・東トルキスタン侵略の例を持ち出すまでもない。当時のアメリカ軍、イギリス軍の非道についても、歴史的にも否定しがたい事実であることである(この一例が、甲B21の『リンドバーグ日記』に記載された数々の事例である。)。アメリカ軍が上陸する前に、このことを知る軍人一般が、住民に対して(まず)「山に隠れなさい」そして、いざとなったら「自決しなさい」と言ったことは、当時の状況に照らして、非道なものとして非難すべきものではない。アメリカ軍が上陸する前に、その非道を語り、その対処を言うことは、当時の認識としては決して間違ってはいないのである。
アメリカ軍の日本の捕虜、投降者に対する非道は、「リンドバーグ日記」(甲B21)にも記載されている。若干引用しておく。
「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取扱い、それらの行為が大方から大目に見られていたのである。」(甲B21・532頁)。
「われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方で自らの残虐行為を包み隠し、ただ単なる報復措置として大目にみようとする」(甲B21・533頁)。
著者リンドバーグは、こうも言っている。
「とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、最後の一兵まで戦い抜くだろう」(甲B21・548頁)。
この言葉は、何故に日本軍が投降を躊躇し、住民に積極的に投降を勧めなかったか、何故に日本軍が客観的には(若しくは後から振り返ってみて)勝ち目のない戦いを続けたのかを考える上で留意すべき視点を提供している。勿論、この裁判は歴史認識を問う場ではない。しかし、「山に隠れて、自殺せよ」という事前の日本兵達のアドバイスが、「日本軍の嘘の宣伝」を基にしたものであるとする被告らの主張に見られる前提は、必ずしも事実に合致しないものであり、俄に承服し難いものであることを指摘しておく。

⑹ 「Jap」という語について
林教授の翻訳文にない英文の第三文には「Jap」という語が登場する。これが、日本人を侮蔑的軽蔑的差別的に表現する語であることは周知のことである。公文書においても、この表現を使用する当時のアメリカの本質が見受けられるものである。公民権運動が戦後の1950年代後半から始められたこと、当時アメリカ人であったはずの日系人が強制的に収容されたこと等の例をとるまでもなく、当時のアメリカは、極めて人種差別的な側面が強い国家であることを忘れてはならない。
リンドバーグがその日記(甲B21)に記しているように、アメリカ軍には、日本人を「動物以下」のものとする偏見が満ちていたのである。
この面からも、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに紹介されている「慶良間列島作戦報告書」の内容は、割り引いてみる必要がある。

⑺ 沖縄タイムス掲載英文の正確な訳について
    以上を踏まえて、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスに記載された下記の英文を正確に訳せば、次のとおりとなる。
 
「Japanese PW’s consisted of approximately 100 civilians, Two inclosures were established, one for males and one for women and children. Civilians, when interrogated, repeated that Japanese soldiers , on 21 March, had told the civilian population of Germa to hide in the hills and commit suicide when the Americans landed. Interrogation also revealed that Japs had been in much greater strength on the island but had been evacuated to Okinawa in early March.」
 
訳:「日本人の収容所には、おおよそ100人の民間人が含まれていた。二つの収容所が設置され、一つは男性用と女性・子供用である。尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間(げるま)の島民に対して、アメリカ軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。
尋問では、ジャップは、慶留間島ではるかに(恐らく3月始めより前にはとの比較)大きな軍隊を保持していたが、3月始めには沖縄本島に撤退したとも伝えている。」

訳文としては、「to hide」の動詞を訳出する必要がある以上、「tell 人 to〜」を「命令」と訳するわけにはいかない。そして、「tell 人 to 〜」は、そもそも、「軍命令」の意味は有しない。 「tell 人 to 」の訳は、せいぜい「direct」より更に弱い意味を持つ「instruct」(教える、指示する、指図する)の意味しか有さない「人に〜しなさいと言う」の意味である。
「山に隠れなさい」ということは、前述した通り「隠れる」ことで命・名誉を守りなさいという言葉であり、これは「自決命令」の遂行を妨げる言葉である。仮に軍からの「自決命令」が出ているのであれば、兵隊達が「山に隠れなさい」というわけがない。つまり、原文は、「自決命令」が存在しないことを示す証拠である。「commit suicide」の記載を含む第二文は、日本兵が、住民に対して自決を「しなさいと言った」という行為を批判するため、敢えて掲載したものではないかと推測されるのである。

(8)「commit suicide」の記載について  
  先程も述べたが、この英文は「作戦報告書」である。アメリカ軍の部隊の功績を記載する必要がある。第三文では、3月始めに日本軍が沖縄本島に撤退していたということも記されている。それにも拘らず、当該アメリカ軍部隊としては、日本軍撤退後の慶留間島における部隊の功績を書く必要があるのである。それが、第二文である。
「commit suicide」に関する住民の証言が「作戦報告書」に記載された理由は、キリスト教の宗教的側面を排除して考えることは出来ないと思われる。
「commit」(犯す)とあるように、自殺はキリスト教では大罪である。課せられた神の試練を自ら放棄する強く責められる行為である。恐らく、報告書に記載があるのは、キリスト教的観念を前提に、
自殺という神を恐れぬ行為を、民間人に軍人が勧めた
というニュアンスが含まれ、これを敢えて記載することで、敵国日本の悪性をアピール出来るものということであろう。キリスト教的観念からは、そもそも、「山に隠れろ」まではいいとしても、「自殺しろ」と他人に言うことは、異常な奇異感を覚えるということになる(奇異感を覚えないとすれば、日本人だからである。)。
自殺、特に切腹行為を理解し難い西洋人に容易に理解出来るように努めた名著がある。言うまでもなく、新渡戸稲造の「武士道」である。新渡戸稲造は、「武士道」において、
「私は自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張するものと解せられたくない。しかしながら名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を絶つに十分なる理由を供した。」
と記載している。ここで、新渡戸は、自殺を是認する主張としては受け入れないで欲しい旨記載しているが、日本以外、特にキリスト教圏での自殺観について埋め難い考えの違いを吐露しているのである。
被告らは、軍が出した戦時訓などを引用し、「自殺は強制されなければされない」旨の主張をしているが、そうではないのである。民衆は愚純ではない。根底にあるのは、日本における自殺観とキリスト教圏における自殺観との埋め難い考えの違いである(集団自決を生き残った村民たちの証言を読んでいて感じるのは、誰かに命じられたというより、むしろ皆で一緒に死にたいという心情であり、神への反逆ではなく、世間に背を向けて心中する家族の心理状態に近いものである。)。
恐らく、「部隊報告書」に第二文が記載された意味は、次の理由からである。
慶留間島にはジャップの大きな戦力はなかったが(3月始めに撤退していると書いている。)、(撤退後の)3月21日にも、民間人に軍人が、(キリスト教的正義に反する)「自殺」を指図している(このような慶留間島で、部隊は戦ったのである)。 
この第二文は、キリスト教的正義感を持つアメリカ人に、神をも恐れない日本軍の悪性をアピールするものである。

⑼ 結論
以上から明らかなように、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事は、本件における「軍命令」の存在を立証するものでは到底ない。むしろ、その英文は「軍命令」を否定するものとさえ読めるものである。林教授の和訳については、本件で対象となっていない「慶留間島」(それは「座間味島」でも「渡嘉敷島」でもない。しかも、そこでは、集団自決は報告されていない。)における日本兵達による占領軍の非道という前提事実を踏まえてされた島民に対するアドバイスについて、構文的にも恣意的に解釈されたもので、本件においては何ら意味がないものである。
渡嘉敷島と座間味島で発生した集団自決における「軍命令」の有無が問題となっている本件において、これを証明するものとして、そもそも集団自決が発生してもいない慶良間島において兵隊達が島民に語った言葉(それを命令と翻訳するには大いに疑問がある)を記載した英文を「軍命令」の証拠として提出していること自体、被告らが主張している「軍命令」の根拠が極めて乏しいこと露呈するものであると言わざるを得ない。
  
5 座間味村「座間味島」の記載について
既に述べたことであるが、本件の対象となる座間味村「座間味島」に関する部分については、乙35の1、乙35の2の沖縄タイムスの記事には、そもそもの英文自体が記載されておらず、林教授の意見を交えた和訳と、事実と意見自体を区別しない論説によっているのであり、そもそも真偽を論じるに適切ではない。
しかし、この沖縄タイムスの記事をよく読むと、林教授自身、座間味村「座間味島」について、「軍命令」はなかったことを自認する意見を記載している。つまり、林教授は、座間味の報告書について、
「明らかに民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」
  という訳文を記載し、それを基に、
「『集団自決』がおきた直後の時点において、慶留間島では複数の日本兵から米軍上陸時には自決せよと命じられていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが、保護された島民たちの証言で示されている。」(乙35の2)
との意見を述べている。
    林教授によれば、「慶留間島」は「命令」で、「座間味」は「指導」であったということになる。恐らく「座間味」の原文は、「tell 人 to 〜」よりもニュアンスが更に弱い特定の言葉を使っているのであろう。
    そして、林教授は更にいう。
    「日本軍を中心とする戦時体制が島民の生命を犠牲にしたことがよくわかる。部隊長の特定の命令があったかなかったという命題だけに『集団自決』の議論を限定し、日本軍の名誉回復をはかろうとする企てが、いかに視野の狭い、木を見て森を見ない愚論であるか、米軍資料を読みながら改めて感じた。」(乙35の2)
被告らは、既に、この資料においても論点を恣意的に移そうとしている。 被告らは、「沖縄ノート」が引用した沖縄戦史、「太平洋戦争」が記載する「部隊長の特定の命令」(軍命令)を出したとする非道な元隊長の行為について、非難し続けて来たはずである。
被告らは、当時の戦時体制について非難する前に、事実は事実と認め、誤りは誤りと認め、謝罪し、記載を書き直すことで、非情な軍命令を下したと非難された元隊長の名誉を回復することが先決であろう。言うまでもないが、裁判は、歴史観を議論する場ではない。この裁判では、被告らの著作が「『原告梅澤少佐』、『赤松大尉』が非道な軍命令を出した」と非難したことが、果たして事実に基づくものかどうかが問われているのである。当時の戦時体制や日本軍の沖縄戦についての考察や非難は、別のところでなされる問題である。

第3 援護法における救済拡大の経緯に関する被告らの主張の問題点
 1 被告らの主張
被告らは、その準備書面(7)の第1の2において、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙36)、「沖縄作戦講話録」(乙37)及び「戦斗参加者調査資料」(乙39の1〜5)に記載されている内容を根拠に、「日本政府は当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた。戦闘協力者(戦闘参加者)に該当しないとしていた扱いを陳情により変更したわけではない」などと主張している。
   しかしながら、以下に述べるところから明らかなように、上記主張は一連の事実経過を総合的に踏まえたものではなく、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それに基づく粗雑な推論によって事実を歪曲するものである。
 
2 援護法適用の拡大の経緯
まず、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)が沖縄に適用されるに至った一連の事実経過を纏めると、次の通りである。

    S27(1952).4  援護法公布。
              ※ 援護法の目的は、「軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」にあった。軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
    
  〃   8  政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置(甲B51の1枚目・平成18年11月23日付琉球新報3 段目)。
              ※ 政府としても将来的には援護法の沖縄への適用は当然と考えていたので、主として援護業務推進のために、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した(甲B51の1枚目・3段目)。
     
S28(1953).3  北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。
             日本政府の機関委任事務として、琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置される(甲B51の1枚目・4段目)。
             宮村幸延が座間味村の「援護係」に着任する(甲B1・陳述書8頁「ア」、甲B26・本田靖春著「第一戦隊長の証言」298頁最下段)。
             「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して、各市町村に遺族会が相次いで結成されて行く(甲B51の1枚目・4段目)。

       〃  .9  「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められる(甲B51の1枚目・5段目)。

    S30(1955).3  総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する(乙37・4-3頁)。

    S31(1956).3  中等学校生徒について、男子生徒は全員軍人、女子戦没学徒は軍属として死亡処理され、援護法の適用を受けるようになる(甲B51の2枚目・平成18年11月30日付琉球新報3段目)。
             当時は、「軍民一体の戦闘」という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれたというのが、遺族会の沖縄戦認識だった。しかし、その犠牲をどのように援護法に適用させるかという難題に直面していた(甲B51の2枚目・4段目)。

     〃   〃   厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れる。遺族会の事務局長自ら沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味・渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させる(甲B51の2枚目・5段目。乙16・933頁)。尚、その際に、座間味村では宮城初枝に対する事情聴取が行われ、《梅澤命令説》が公認されることとなったものである。
また、この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった。同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討し、その結果、《赤松命令説》を作り出したものである(甲B35))。
             以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになる(甲B51の2枚目・5段目)。

    S32(1957).7  厚生省が一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、住民の沖縄体験を20種に類型した「戦闘参加者概況表」にまとめる。
その結果、軍の命令による「集団自決」に該当すれば一般住民も兵士同様に「戦闘参加者」として認定され、「準軍属」扱いされることになる。
但し、軍の命令を受けて「自分の意志」で戦闘に参加・協力したか否かが問われることになったので、軍の命令を聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられる(以上、甲B51の2枚目・5〜6段目)。

    S38(1963).10  6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる(甲B51の3枚目・6〜7段目)。

3 宮村幸延の奔走
以上の経過を纏めると、政府は援護法が公布された昭和27年の段階から沖縄に同法を適用することを考えており、それは喫緊の課題であった。現に翌昭和28年3月には琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置された。
そのような流れの中で、同月、宮村幸延が座間味村の「援護係」に早々に着任した。当時は「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して各市町村に遺族会が相次いで結成されて行ったり、その「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められたりするなど、遺族会の活動も極めて活発化し、住民の意識においても援護法適用は喫緊の問題であった。本田靖春著『第一戦隊長の証言』にも「戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、村役場はこれに基づく業務に早急に取り組む必要に迫られていた」と、その切迫した状況が記されている(甲B26・298頁最下段)。そのため、昭和28年3月に援護係に着任した宮村幸延も、当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走していたのであり、着任早々の時点から3回程上京し、厚生省沖縄班長や係員と折衝していたものである(甲B1・8頁「イ」)。この時期の幸延の複数回の上京については、「第一戦隊長の証言」にも述べられている。299頁最下段には「そう判断した幸延さんは、厚生省とじかに談判しようと上京を決意した」とあり、300頁2段目にも「ともあれ、ふたたび自費で上京した幸延さんは、厚生省に2回目の陳情をした」と記されている。
この折衝の過程で、14歳以下の者に対する援護法の適用が「法令なし」との理由で断られた。しかしながら、同時に係官より、「軍命令があったのならネー」と示唆する発言があった。そこで宮村幸延は帰村して審議を重ね、軍命令で処理する方針を決めたものである(甲B1・8頁「イ」及び「ウ」)。この方針は、当時の遺族会の沖縄認識、即ち、「『軍民一体の戦闘』という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれた」という認識にも合致していた。そのような認識の背景となっている事実がどのようなものか、そしてその事実が果たして真実に合致しているかどうかは全くの別問題として、とにかく援護法適用による補償が最大の課題であった。
その後、昭和31年3月、厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れ、遺族会の事務局長自らが沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味島、渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させた。その際、座間味島での集団自決の前夜に自決のための爆薬を原告梅澤の下に乞いに来た5人のうちの唯一の生存者である宮城初枝も事情聴取され、国の役員、役場の職員、島の長老らを前に、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」との内容の問いに対し、やむなく「はい」と答えたものである(甲B5・「母の遺したもの」250〜253頁。尚、252頁6〜7行目には、「厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末」となっているが、これは計算を1年誤ったものであり、正しくは前記の通り、甲B51の2枚目・5段目や、乙16・93頁などからすると、昭和31年3月である。宮城初枝の記憶違いか、著者である娘宮城晴美氏の聞き取り違いであると推測される。そのため、原告ら準備書面(5)19頁最終行は、1957(昭和31)年3月と訂正する。また、原告準備書面(5)20頁の5ないし8行目も誤りであるので、訂正する。正確な経緯は前記⑴の通りである。)。
上記の経過から推測すると、幸延が厚生省に陳情を始めた以降、昭和29年から30年頃には、座間味村においては、自決者遺族が援護法給付を受けるため、村幹部、島の長老ら(琉球政府の関係者も含まれていたかもしれない)が、風説に過ぎなかった《梅澤命令説》を、村として公的に打ち出すことが継続的に検討計画されていたものと思われる。
一方、渡嘉敷村では、前記の通り、琉球政府社会局援護課の照屋昇雄が、昭和31年頃までに、100名以上の住民から聞き取りをしたものの《赤松命令説》を証言した住民は一人もいなかった。しかし、同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討して、《赤松命令説》を作り出したものである。
そして、以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになった。

4 弥縫策として隊長命令説
以上の経過から明らかなように、《梅澤命令説》も《赤松命令説》も援護法適用のために作り出されたいわば弥縫策に過ぎない。しかるに、それをもって「日本政府が当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた」などと主張することは、一連の事実経過の全体から敢えて目を背け、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それのみに基づいて主張することにより事実を歪曲するという誤魔化しであり、正に本件各書籍が行っている事実の歪曲の手法以外の何物でもない。
   真相は、昭和31年3月の厚生省の半月にわたる実情調査で、《梅澤命令説》と《赤松命令説》という弥縫策が出来上がってしまったということである。その弥縫策を踏まえて前記乙36、乙37及び乙39の1ないし5が作られているに過ぎないものである(あるいは、当該実情調査以前にも、既に《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が座間味島及び渡嘉敷島内に流布していたと推測されるから、そのような島内の事情もまた乙36等の記載内容に影響しているものとも考えられる。即ち、座間味島では宮里盛秀助役ら村幹部からの《忠魂碑前集合玉砕命令》が原告梅澤の自決命令と誤解される状況が存在し、渡嘉敷島では集団自決の音頭をとった村長以下が生き残ったため、死者に対する申し訳なさや自らの責任回避等により《赤松命令説》を語るようになったと推測される。それら《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が島内で流布した背景については、平成18年11月10日付原告準備書面(5)4頁以下、及び24頁以下で述べた通りである。)。
    
5 原告梅澤の陳述書との食い違いについて
また、被告らは、宮村幸延の「功績調書」(乙40の2)に昭和32年(1957年)の上京の件しか記載されていないことを挙げて、原告梅澤の陳述書(甲B1)の内容と相違するものとしているが、それもまた前記⑴の事実経過を無視した主張である。そもそも当該「功績調書」に昭和32年の上京の件しか記載されていないのは、当該上京こそが特筆すべき結果をもたらした上京だったからに過ぎない。前述の通り、宮村幸延は昭和28年3月に援護係に着任した当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走し、上京していたものである。原告梅澤の陳述書には、その当初の上京のことも含めて記載されているのであって、前記「功績調書」の内容と矛盾するものではない。常識で考えても、そもそも援護法適用が喫緊の課題という状況にありながら、昭和28年の着任後昭和32年まで一度も上京しないということは到底考えられない。
また、たとえ原告梅澤の記憶や理解に若干の不正確さがあったとしても、それは長年月を経ることに伴う不可避的なものである。同人の記憶内容と理解の骨子は、客観的な事実経過から外れるものではない。
    
6 「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載について
 尚、乙36等の書類を個別に見ると、次のような問題も存在する。
⑴ 住民処理の状況」(乙36)の記載について
まず、「住民処理の状況」(乙36)について見ると、問題部分の記述は、「軍(・)によって作戦遂行を理由に自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)と(・)す(・)る(・)本事例」となっている。即ち、命令の主体が特定されず単に「軍」と記載されているだけでなく、自決命令の存在についても未だ推測に基づく表現に止まっている(43頁「c」の「⑴」)。自決命令の主体が原告梅澤らであるならば、少なくとも「軍」といったような抽象的な表現には止めない筈であるし、自決命令の存在がはっきりしているのであれば、「自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)本事例」と記載する筈である。
そして何よりも、乙36の上記問題部分の記述がどのような根拠(証言)に基づいているのかという点は全く不明であり、記述内容の正確性それ自体に多大なる疑問がある(この点については、後述の乙37及び乙39についても同様である)。現に乙36・2枚目「本資料の出処について」の「3」にも「比較的(・・・)信憑性があり」と記載され、信用性に一定の留保が付されている。
⑵ 「沖縄戦講和録」(乙37)の記載について
次に、「沖縄戦講和録」(乙37)について見ると、問題部分の記述は、「沖縄の場合慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております。」(下線部原告ら代理人)となっているだけで、原告梅澤及び赤松大尉若しくは軍による自決命令の存在が記載されているわけではない(4−31)。
そして、自決者の数についても、乙36・43頁の数(座間味村155名、渡嘉敷村103名)、甲B6「鉄の暴風」2枚目左頁8行目の数(座間味島52名)とも大きく異なっている。
    被告らが、《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠とする調査結果の自決者数が、かように各調査結果ないし文献により異なるのも不可思議である。両島とも狭い島であり、住民間のつながりも濃く、自決の実態や自決者数についての調査はさほど困難であったとは思われない。
     《梅澤命令》、《赤松命令》が実態のない幻のようなものであるがゆえに、集団自決以外の原因で亡くなった住民についてもこれに含まれて行ったため、軍命令による自決者数が増加していったことが強く疑われるのである。
⑶ 「戦斗参加者概況表」(乙39-5)の記載について
更に、「戦斗参加者概況表」(乙39-5)について見ると、自決命令の主体が単に「警備隊長」と記載されているだけで、果たして原告梅澤及び赤松大尉のことを指しているのか疑問も残る(4枚目「N」)。
    また、そこに記載されている「警備隊長」の命令の内容は、座間味島、渡嘉敷島に共通して、「住民は男女老若を問はず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し、愈々と云う時にはいさぎよく(以下、解読不能)」というものであるが(4枚目「N」)、この内容は、本件各書籍に記載されているものとも、被告らが主張している原告梅澤及び赤松大尉の命令内容とも大きく異なっている。即ち、そもそも被告らの主張する命令の内容は、原告梅澤については、@「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」(本件書籍一「太平洋戦争」300頁8行目以下)、及びA「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」(本件書籍三「沖縄ノート」69頁10行目以下)というものであり、赤松大尉については、上記A及びB「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している」(本件書籍二「沖縄問題二十年」4頁13行目以下)というものである。
これら@ないしBは、いずれも上記「戦斗参加者概況表」(乙39−5)に記載されている「警備隊長」の命令内容とは大きく異なっている。このことは即ち、援護法適用による沖縄復興のために政府も村役場も「軍命」があったか否かだけに拘ったため、その存在の仮構には腐心したが、「軍命」の細かな内容は全く重視されていなかったこと、そしてその時々の風聞等によってその都度その都度命令の内容が変容して行ったことを端的に物語るものである。
⑷ 小括
    以上述べたところより、「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載に基づいて梅澤隊長ないし赤松隊長による集団自決命令の存在を言う被告らの主張には、何ら理由がないと言うべきである。


posted by みなき at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。